ヒルコ・アワシマのこと-その2-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

さて、ヒルコとアワシマについてもう少し考えてみましょう。

河合隼雄氏(ユング心理学者、文化庁長官を務めた)によると、外国人(特に欧米系の人たち)に日本神話を紹介すると、必ずこのヒルコ・アワシマの物語のところで引っかかるそうです。
話が中途のまま終わってしまっているのが不思議だというのです。

そもそも、キリスト教やユダヤ教の神話では、葦船で流されるのは救世主か聖なる王だというのです。モーゼも幼い頃に葦船で流されています。

あるいは聖王や救世主はうまやで誕生するという神話類型もあって、イエス・キリストはそのパターンですね。聖徳太子も厩戸うまやど皇子のおうじというお名前で、厩の中、あるいはその前で生まれたとされています。
 
ですから、ヒルコの神話は本来さらに続いて、葦船で流されて海岸に漂着し、艱難辛苦の末に素晴らしい神人に成長して故郷に帰還し、救世主として人々を救済したり、民衆を虐げる国家権力と戦い打ち破って新国家を樹立して王として即位し、人々はその善政に感謝しました、めでたし、めでたしというストーリーになっているのが筋だろうと、彼らは言いたいわけです。

そういう欧米の人たちの指摘を受けて、もう一度この神話を読み返してみると、「ヒルコ」は、ひょっとして「水蛭子ヒルコ」じゃなくて、本当は「日盛子ひるこ」なんじゃないかと気づきます。天照大神(女神)の別名が「オオ日女ヒルメのムチ」ですから大いにあり得る話ですね。

とすると、ヒルコは実は太陽神だったんだということになりそうです。そのように、ヒルコは太陽神であるいう仮説を立ててみると、さらにその証拠が見つかります。
 
ヒルコは三年間足が立たなかったとありましたね。古代のエジプトの象形文字やメソポタミアの楔形くさびがた文字では、「立った足」を描いて、それで「日の出」を表わしたのだそうです。ですから、足が立たないというのは、ヒルコは実は太陽神なんだけれど、残念ながら立ち上がれなかった、つまり日の出が出来なかったという意味がそこに込められているのです。

足立さんという姓がありますね、これは「日の出」を意味していて、日の出の太陽を神として祀る一族だったのでしょう。「日立(常陸)」という姓や地名も同じですね。

なぜ、国生みというような最も重要だと思われる場面の最初に、このような不完全に見える、現代人から見てかなり違和感がある(身障者差別、男女差別)神話が挿入されているのでしょうか、不思議ですね。  

こんなヒルコ・アワシマの神話が稗田阿礼の口をついて飛び出してきました。その神話は決して天皇家の権威を高めるために役立つようなものではなかったのですけれど(アマテラスより前にお兄さんの太陽神がいたと認めることになりますからね)、これは神の伝えなのだからとそのまま掲載しました。そういうところに古事記の編者たちの神に対する畏敬の念、誠実な編集態度が現われているように思うのです。

当時の人たちには、この神話が伝えようとしている神のメッセージはほとんど理解出来なかったろうと思います。まだそこまで人の魂が成長していなかったでしょうし、身障者差別、男女差別が間違っているなどという道徳観もなかったでしょうから。ただ、生みの親の別離の悲しみの情愛というものはきっとあったでしょうね。

私は、このヒルコ・アワシマの神話の部分は、実は当時の人たちにではなく、現代の私たち日本人に対する神からの問いかけ、与えられた課題であるように思うのです。「さあ、君たちはこの中途で終わっている神話をどう続けるつもりなのかな?」と、問題提起しておられるように思うのです。

河合隼雄氏は、このヒルコとアワシマという日本人の心の中から排除された差別された存在をどういう形で再統合一体化するか、それが日本という国の将来を左右するような大きな課題となるだろうと予言しておられます。

以下の話は誤解を生む恐れがあるので書きたくないことなのですが、思い切ってここに書いておきます。

ある日、私がいつものように坐禅していると、突然「おじさん、こんにちは!」という元気な声がしました。

すると、目の前に車椅子に乗った小麦色の肌をした、眼がキラキラ輝く可愛らしい少年が現われました(念のために言っておきますが、イメージとして現われたのです)。

「こんにちは、どうしたの?」と聞くと、「ボクはヒルコといいます。お父さんとお母さんに捨てられて、葦の船で漂っているところを、漁師のおじさん、おばさんに助けられました。
それからずっとその家で養ってもらい、漁業のお手伝いも出来るようになりました(ヒルコさんはエビスさんとも呼ばれ、釣竿を持って鯛を抱えた姿で描かれています。昔は足が不自由な人が出来る仕事は限られていたのですが、魚を釣るのは船底に座ったままでも出来る作業なので、漁師は足が不自由な人でも従事出来る数少ない職業でした)

それに、近くの神社の神主さんがとてもいい方で、ボクの先生になって下さって、ボクはその先生のもとでいっぱい勉強して神人としてしっかり成長できたと思います。

ボクはもう、お父さんやお母さんが恨めしいなんて思うことはなくなりました。お父さんもお母さんも、ボクのために精一杯のことをして下さったんだと今では理解できるようになりました。

ボクはもうそろそろふるさとに帰還できるように思います。立派に成長したボクの姿を見て、お父さん、お母さんもきっと喜んで下さるはずです。おじさん、『ボクはもうすぐ帰るよ』と両親に伝えてくれませんか」

「ええっ!僕に伝えられるかなあ。どうしたら伝えられるの?」
「おじさんが、ボクとの出会いと会話をそのまま文章にしてくれたらいいんですよ。そうすればそれで両親にちゃんと伝わるようになっていますから」

というわけで、ここにその対話の文章を載せさせて頂きました。イザナギ・イザナミさま、ヒルコさんは神人として立派に成長してもうすぐ帰ってくるそうですよ。

さて、ヒルコさんはどんな姿で帰還されるのでしょうね。

欧米の人なら神話の後半をこんなストーリーにするのではないでしょうか。

ヒルコはついに立てるようになりました。そして堂々と故郷に凱旋して人々をしあわせにするために活躍しましたとさ。
これは、「水蛭子ヒルコ」が「日盛子ひるこ」に変身したというストーリーですね。

私はこのようなストーリーでは、私たち日本人にはなじめない、納得できないと思うのです。まるで、薄っぺらなアメリカ漫画のサクセス・ストーリーのようだなあと思ってしまいます。

現実は「足が立つようになる」という人は数少ないのではないでしょうか。「足が立たないまま」で一生を送るという人の方がきっと多いはずです。

じゃあ、そんな「立てない」人は「水蛭子ヒルコ」のままで、決して「日盛子ひるこ」にはなれないで終わるというのでしょうか?

私はそんなことはないと思うのです。「水蛭子ヒルコ」が「水蛭子ヒルコ」のままで「日盛子ひるこ」である、輝いて生きてゆけるという道があるように思うのです。

ヒルコ少年が車椅子から立ち上がるのではなくて、車椅子のまま復帰して輝いて生きるという事が可能だと思うのです。

人は「出来ること」と「出来ないこと」の集合体(束)です。ある人には当たり前に「出来る」ことが、なぜか自分にはどうしても「出来ない」ということがままあります。どんなに頑張っても「出来ない」ものは「出来ない」のです。

でも、そんな「出来ない」ことがたくさんある自分を完璧じゃないと否定したり、人と比べて劣等感を抱いたりしなくてもいいのです。

そうではなくて、さいわいなことには、いま使用可能な「出来ること」もたくさんあるのですから、そのことに感謝して、それらを総動員して今・ココの当面の課題にぶつかってゆく時、私たちにはその人の生き様が美しい、本当にいのちが光輝いていると見えるのです。そして、その人がそのように精一杯全力で生きてゆきつつある姿こそが、他の人を勇気づけ、多くの人が自分や他の人を許し、愛するようになるということにつながってゆくと思うのです。それが、「水蛭子ヒルコ」が「水蛭子ヒルコ」のままで「日盛子ひるこ」になった姿ではないでしょうか。

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