「小さなコトバ集」(その2)

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

坐禅会の仲間で「大敬先生の『小さなコトバ集』を日々の生き方のヒントにしています」とおっしゃる方がいらっしゃって、『それは何だろう、そんな文章を書いた覚えはないんだけれど』と不思議に思っていたのですが、ある時、ふとその話を思い出して、パソコン内を検索で調べてみたところ、何と「小さなコトバ集」が見つかったのです。

内容もなかなか面白くて(自分で言うのも何ですが)、なるほど文章を作成していた当時の苦労も思い出して(確かに僕が書いたんだなあ)、これをこのまま埋もれたままにしておくのは残念なことなので、しあわせ通信で紹介しておくことにしました。

まず全体を通して読んで下さって、サイコロを一つ用意して、一回目に出た目で(1)~(6)を決め、二度目に出た目で①~⑥を決めると、その日、その日のメッセージが得られる、そういう使い方も出来ると思います。

↓(1)~(4)はこちらに記載しています。

「小さなコトバ集」

(5)


へたくそでも自分の足で歩こうね。


これから運気が上がってゆく人は、次第に謙虚になってゆくものです。
好運に恵まれていても、傲慢な振る舞いが目につくようになってくると、『ハハア、もうすぐ没落だなあ』と分かります。


心が陰気になれば運が開けることは難しいです。なにとぞ「春の気」になられて生活なさってください。(黒住宗忠公)


「どの人も」の詩
どの人も その人にしか歩めぬ人生を 歩んでいます
どの人も 宇宙でたった一人の 貴重な存在なのです
どの人も 本当はひとつに 結ばれているのです
どの人も きっと「ひとついのち」に 帰り着くのです


どっちにどう転んでも、あったかい大地の上。孫悟空でさえ、あったかいお釈迦様の手のひらから飛び出せなかった。


一生で成長できるのは、わずか1ミリほど。
それなのに、人より0.1ミリ遅い、人より0.2ミリ早い
などといって一喜一憂するなんて、つまらないこと。
今生だけですべてが決まるわけではない。
今・ココで自分にできる歩みを精一杯続けてゆけばいい。

人のことはどうであれ、自分は生まれ変わり死に変わり、
自分に与えられた道を、粘り強く歩み続けようと覚悟を決めること。

(6)


世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。
新たな時代は、世界が「一」の意識になり、生物となる方向にある。
(宮沢賢治)


自分の顔は自分では見られない
でも、その顔を自由自在に使いこなすことはできる。
それでいいでしょう?

限りないいのちの全部を把握する
それはアタマにはできないこと
でも、そのいのちの全体を、
今・ココに盛り込んで発動させることは出来る
それでいいでしょう?


「幕開けのことば」

私は私を許します/私はあなたを許します/私は世界を許します

私は私を認めます/私はあなたを認めます/私は世界を認めます

私は私を愛しています/私はあなたを愛しています/私は世界を愛しています

私は私を抱擁します/私はあなたを抱擁します/私は世界を抱擁します

私は私でOKです/あなたもあなたでOKです/世界も世界でOKです

私が私であること、それは何と素晴らしいことでしょう
あなたがあなたであること、それは何と喜ばしいことでしょう
そして世界が世界であること、それは何と美しいことでしょう

私はしあわせになります/あなたもしあわせになります/そしてしあわせな世界の幕がくのです


「ゆ」の言霊の詩
ゆっくり ゆったり 湯につかり
たゆとう お湯に 身をゆだね
心も身をも ゆるくして
じぶんをゆるし ひとゆるし
われ ひと ともに 癒ゆる道 


NHKのメーク師であった岡村宏さんの『一流の顔』(幻冬舎文庫)より
岡村さんはジャンヌ・モローに会われた時、はじめはガッカリされたそうです。スクリーン上での若い頃の彼女のイメージがくずれて、初老のシワの多い顔のジャンヌ・モローがそこにいたからです。
しかし、時間がたつにつれて、その彼女がとても魅力的に見えてきました。そのシワの光った顔には相手を包み込むような温かさがあったのです。
岡村さんは次のように描いています。
「自分の目標を達成した人の顔にシワはよく似合う。シワはその人の生きてきた年輪だ。失われていく若さと引き換えに、シワは人を柔らかく説得する力を与える。…シワに価値をもたせられるかどうかはその人の生き方一つなのである」


ハッピーエンジェルさんたちが「さあ、これをどうぞ」と次々プレゼントを差し出して下さっているのに、「私は忙しいのよ、それどころじゃない、あんた邪魔よ!」と、ハッピーエンジェルさんが差し出して下さっている愛の手を払いのけている人が多い。


さて、以上で「小さなコトバ集」の本文は終了ですが、スペースに若干の余裕があるので、サイコロを二度転がして、示された文章を解説してみることにしましょう。  

そうすると、(5)-⑤ がヒットしました。まず本文を再録しておきますね。

(本文)
どっちにどう転んでも、あったかい大地の上。孫悟空でさえ、あったかいお釈迦様の手のひらから飛び出せなかった。

(解説)  
秋が深まったある日、子供達を連れて遊園地に行ったことがあります。晴れていましたが風が冷たい日でした。

子供達が遊んでいるのを芝生に腰をおろして見ていたのですが、ふと、ゴロンと仰向けに横になりました。
すると、不思議なことには、ぜんぜん寒くないのですね。風も当たらなくなったし、背中の地面は意外にも、とってもあたたかだったのです。

その当時の「大地のぬくもり」を思い出しながら、この文章を書いたのでした。

「どっちにどう転んでも」というのは、「吉と出ても、凶と出ても」ということです。
サイコロを転がしますね。一の目が出たり、六の目が出たり、人生では出て欲しい目だけが出るとは限らないですね。どんなに努力しても、ツラい目に会うこともありますね。

これは、魂の学びのためです。「いろんな体験をしながら成長してゆきなさい」と、神仏様が計らってくださっているのです。人生にどんなことが起こっても、きっと、それは、今のあなたの魂の成長のためには、最善・最適な出会いなのです。

どんな目にあっても、どんな時、どんな処に立っていても、あなたの足の下には「あったかい大地」があって、あなたを支え、はぐくんで下さっているのですね。そのあったかい大地がどこまでも広がっているから、イノチのサイコロはどこまでも、いつまでも、転進してゆくことが出来るのですね。

この「大地」は、「イノチの根っこ」のたとえで、その「根っこ」によって、私たちは育まれているのです。その根っこにすべての人や動植物などが連なっていて、だから、地球上に生きているものたち全員は、この「大地のお母さん」によって生み出され、養われている兄弟姉妹のイノチで、本当は「ひとつ」なのです。これを「ひとついのち」と言うのでしたね。

その「ひとついのち」の根っこのお母さんに、阿弥陀あみだ如来にょらいというお名前(名号みょうごう)をつけて崇め、礼拝して「ナムアミダブツ」と称えることにしたのです。

「アミダ」には「アミターバ」と「アミターユス」という二つの意味が含まれているそうです。

「アミタ」は「限りない」という意味、「バ」は「光」という意味です。そして、「ユス」は「寿命」という意味です。

つまり、「何ものにも遮られることがない限りない光明」、「どこまでも続く寿命」という特性を持って、私たちを救済しよう、極楽浄土に送りとどけようと働かれるのが「アミダさま」なのです。
それで、阿弥陀如来の別名が、「無碍光むげこうぶつ」、「無量寿むりょうじゅぶつ」というのです。

どんな世の片隅で、四方壁に閉じ込められたような人生を送っている人にも「遮られることがないアミダさまの光明(無碍光むげこう)」が、必ず届いてその人を解放して下さいます。

アミダさまの寿命はどこまでも続いて、私たちがどんな転生をして、どんな境遇になっても、アミダさまのあったかい手は、必ずあなたに差し出されるのです。

阿弥陀様が苦労して築き上げられた国を極楽浄土と言います。その国へは、自分の能力、努力(自力じりき)で到達することは出来ません。

ただ、自分の能力の限界を思い知り、絶望した人だけが、アミダさまが差し出された救いの手に素直に身を任せることが出来、極楽浄土に送り届けて頂けるのです。

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