本記事は「しあわせ通信164号」の内容を再編集して掲載しています。
般若心経というお経は目標達成のためのお経で、読むたびに『よし、やるぞ!』というファイトが湧いてきます。
法華経というお経は、私が私であることの根拠というか、私という個性を持ったいのちが存在することの、宇宙進化論的な意義を教えてくれて、生きてゆく上で大きな自信を持たせてくれます。
延命十句観音経は、苦境に閉じ込められた時、いのちを広げ、伸ばす力やチャンスをもらえるし、また、縁のある方のために称えて、その人を楽にさせてあげることも出来ます。
今回紹介するのは、正式名が『金剛般若波羅蜜経』というお経で(略して『金剛般若経』または『金剛経』)、これは、心の結ぼれをほどき、ホッと楽にしてくれ、本来の自分に復帰させてくれるお経で、『老子』と似たところがあります。
私はこのお経が大好きでよく読みます。もちろん音読です。
歳をとると、コトバの歯切れが悪くなり勝ちですが、音読すればそれを矯正する訓練にもなりますし、真読といって、読み下していない、もとの漢文のままのお経を音読しますと、早口言葉を読むようなもので、なかなか上手に、つかえずに読み進められません。
スムーズに読むには、ある種の緊張感と集中が必要で、その努力が脳の活性化を促進し、老化防止にもなるようです。
それに、音読は呼吸トレーニングにもなりますね。呼気の時間が長くなるので、身心の健康にもいい影響があるのでしょう。
『金剛般若経』はとても味わいがあるお経です。読んでいるうちに、身心の結ぼれが次第にほぐれていって、楽になってゆきます。
ドラマのような展開や盛り上がりはなく、ただお釈迦様の行動や話が淡々と続くだけなのですが…。
このお経を称えると、ところどころ『どういう意味なんだろう』と疑問に思ったり、『はてな?』と引っかかったりするところがあります。
それでも、後で気になったところを調べたりしたことはありませんでした。
なぜなら、必要があれば、かならずジャスト・タイミングで分かったり、情報が届いたりするということを知っているからです。
それで、疑問は疑問としてあたためたまま称え続けてきました。
以下紹介する『金剛般若経』の出だしの部分が気に入っています。
このように、私(弟子の阿難)は聞きました。
ある時、お釈迦様は舎衛国の祇樹給孤独園(つづめて祇園とよばれる)に設けられた精舎(道場のこと)に、弟子衆、千二百五十人とともに住しておられました。
その時、世尊(世にも尊いお方=お釈迦様のこと)は、食事の時間が来たので、衣を身にまとい、鉢(食器のこと)をささげ持って、舎衛大城に入って托鉢(食を乞うて、一軒一軒をめぐること)し、鉢の中が一食分の食物で満ちたところで精舎にもどり、食事を終えると、衣をたたみ、鉢を洗って、それぞれの保管場所に収め、足を洗い終わり、精舎の集会場に入り、座を整えてお坐りになりました。
(これから講義がはじまる)
どうですか、なかなか味わいがあるでしょう。超人のお釈迦さまではなく、当たり前の常人のお釈迦さまがふるまわれる有様が目の前に見えるようでしょう。
お釈迦様は、その時々に必要な動作を一つ、一つ、ゆるがせにしないで着実に、しかも流れるように動作してゆかれています。
次々やってくる今・ココ、今・ココにしっかりイノチの重心をのせて丁寧に行動し、しかも、どの今・ココにも固着せずに、次の今・ココへと軽やかに移ってゆかれています。
そういうイノチの極めて正常で、当たり前のあり方、これこそが禅の極意(もちろん金剛経の極意でもあります)なのですが、それがハッキリ示されています。
こういうごく普通の光景からスタートするお経は、大乗仏教のお経にはほとんどないのではないでしょうか。
たとえば、法華経では、禅定に入っておられるお釈迦さまの眉間から、四方八方にパーッと光が放たれて、その光をスクリーンのようにして、それぞれの世界の、人々を救い、悟りへと導くために、さまざまな形態で活動をなさっている仏や菩薩たちの様子が、ことごとく見られたという超時空的ドラマからスタートしていましたね。
金剛般若経の冒頭の記述は淡々とつづられていて、まるで水墨画のよう、そして法華経の冒頭はサイケ調の極彩色の絵画のよう、それぞれ味わいが違いますが、私はどちらも大好きで、車の両輪のように、私の魂の進化のためには、この両方が必要なのだと思います。
人間がしあわせな人生を送れないのは、アタマが過度にはたらきすぎ、堂々めぐりしたり、暴走したりするからです。
アタマの思考は、未来や過去や、ココとは別の場所へとあなたをフラフラ漂い出させます。
しかし、あなたのイノチは、本当は今・ココにいるわけですね。
あなたのイノチの居場所とアタマの居場所がチグハグなので、イノチの重心が定まらず、その時々に最適・有効な行動がとれないのです。
ですから、このお経の冒頭部のお釈迦さまのふるまいのように、今・ココの動作に意識を集めて、次々やってくる今・ココに必要な一連の動作に専念してゆくようにすると、過去や未来や別の場所に漂い出そうとするアタマを本来の位置に引き戻すことができるのです。
素晴らしいことです。世尊よ。如来がよくもろもろの菩薩たちを護念なさり、よくもろもろの菩薩たちに付嘱されるということは。
『如来』とは、<如から来るもの>です。
『如』は、私のコトバでいうと、<ひとついのち(全体生命)>のことです。分かりにくければ、仏や神のことだと捉えてもかまいません。
『来』とは、その神や仏からやって来る働きかけのことです。
『菩薩』とは、<道を求める者>のことです。
皆さんも、道を求めて、このしあわせ通信をお読み下さっているのだし、また坐禅会に参加して下さっているので、文句なく、正真正銘の菩薩さまなのです。
菩薩か、そうでないかの基準は何メートル道を前進出来たら菩薩で、それ以下の前進しか出来ていないなら菩薩ではない、というようなことではないのです。
その人の心のベクトル(矢印)が、どの方向を向いているかが問題なのです。
『今のところ、具体的には何の行動もとる力はないけれど、いつの日か、きっと私はすべての生ある者たちをしあわせにしたい』という心のベクトルを持って生きている方が菩薩なのです。
まとめると、『如来』とは、<菩薩たちに対する神(仏)からの働きかけ>のことなのですが、私たちも実は菩薩なのですから、『如来』の私たちに対する働きかけのことなのです。人ごとのように思ってはいけません。
その神から私たちに対する働きかけには二種類あるというのです。
それは、『護念』と『付嘱』です。
『護念』とは、<絶えず私たちに思いやりのまなざしを向けて、常に私たちを護り、養い、育てて下さっている>ということです。
『付嘱』とは、『付託,委嘱』のことで、<大まかな方針は伝えて、具体的な行動は一切任せる>ということです。
つまり、「いざという時、手に負えない時は必ず援けてあげるから、気楽な気持ちで、自由に伸び伸び、思い切ってやってみなさい」というのが、神仏の私たちに対する接し方の方針なのです。
そうではなくて、ロボットのように、神様がプログラムされた通りにしか行動出来ないとしたら、その人の魂の成長はありませんね。自分で考え決断し、そしていっぱい失敗して、泣いたり笑ったりしながら、だからこそ人は成長出来るのですね。だから、神様の指導方針は『付嘱』なのです。