現成公案

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信191号」の内容を再編集して掲載しています。

私は通勤時間が2時間ほど掛かり、それで5時30分には家を出ていました(教員をしていた時です)。

早朝出勤なので電車は空いているのですが、私は人に挟まれるのが嫌いで、一番端の席が好きで、お好みの車両の、お好みの席というのがあったのです。
大抵はその席に座れるのですが、時には別の人がその席に座っていたりします。そんな時、私はムッとすることが、たまにあるのです。

冷静に考えれば、その席は私の指定席というわけではないので、誰が座ってもぜんぜん問題ないはずなのです。また、空いている席はいっぱいあるのだから、なにもその席にこだわらずとも、空いている席に座ればいいはずですね。
なのに、なぜ私は、その席にこだわってムッとしてしまうのか、それが不思議でした。

ある時、道路で信号待ちしていると、お年寄りの方が自転車に乗って、フラフラ、危なっかしくやって来ました。
前方に、ベビーカーを押して、もう一人子供の手を引いているお母さんが歩いていました。
すると、その老人は、「コラ!どかんかい(道を譲れということ)」と怒鳴っているのです。
私は、『変だなあ、なぜあのお母さんが怒られねばならないんだろう。自転車の方が避ければいいのに』と思いました。

ところが、よく考えてみると、そのお年寄りは、体の自由が利かないのです。避けようにも方向転換したら、ひっくり返ってしまいそうです。
だから、「お前達が避けよ、はやく避けんかい」というわけですが、結局のところは、この老人自身の行動の不自由さを、外の対象のせいに転嫁して怒っているんですね。

この光景を見て、私が席を占領されているのを見て、なぜムッとしてしまうのか、分かったように思いました。

私の場合は、体の自由はあっても、心が本来の軽やかさ、自由さを失って重くなっているところが、もともとの性向としてあって、それで軽やかに方向転換することが難しくなっているのですね。

本当は、東西南北、どの方向へも扉は開かれていて、一つの道が閉ざされたとしても、いくらでも別の道を選んで前進してゆけるのが「いのち」の「自由さ」、「たくましさ」ですね。

それなのに、そんな途方もない(みちも決まらない、方角も定まらない)、あらかじめ決め付けない、一つの行動パターンに固執しない自由な行動をとることが不安で、ルーチンワークを好み、決められたパターンで行動したがるところが私にはあるようです。
ですから、自分がいつも座っている席に人が先に座っていたりすると、イラッとしまったりするのでしょうね。

私の場合は、そんな傾向の心のやまいの入り口付近という程度でしょうが、もっとその傾向が重くなると、これは妻が経験したことですが、あるお店の駐車場に駐車したところ、女の人がやってきて、そこは私が駐車するところなので、よそに移れと言い募るのだそうです。妻は怖くなって、別のところに移動したそうです。

それ以外にも、私が急いで歩いていて、目の前にモタモタ歩いている人がいて進路をふさぐと、イライラするという傾向もあって、これも同じ傾向の障害の入り口付近なんでしょうね。

そういう心の重さ、固さがもともと私にはあって、それで私の人生の前半(四十二歳まで)は、とても運命が悪かったのです。

しかし、有難いことですね。神さまに与えられた役割を勤めることに関しては、これは「別腹」で、そんな本来悪運(貧しくて、淋しくて、虚しい)を呼び寄せる性向があっても、ホラ!このように、とてもしあわせな人生(豊かで、にぎやかで、弥栄いやさか)が開けてきています。

性向はそのままで、ちっとも変わっていませんが、そういうハンディを背負っているから、人の悩みやシンドイところが実によく分かるということがあるんですね。ご同病仲間ですからね。

だから、大敬さんの本を読んだり、話を聞くと心がほどけてホッとしますとおっしゃる方が多いのでしょう。
そう考えると、こんな私の「弱さ」こそが、私の天命を果たしていく上で、とても大切な財産なんですね。

そんなムッとしたり、イラッとしたとき、私は最近いい対処法を思いつきました。
そんな時、私は『現成公案げんじょうこうあん現成公案げんじょうこうあん、・・・』と、繰り返し称えるのです。すると、イライラやムッ、が収まることを発見しました。

「現成公案」は、道元禅師の言葉です。「現成」というのは、「現在に(さまざまな因果関係の絡み合いで)成立している事態(出来事、たとえば自分が座るはずの席に人が座っていたというような出来事)」を示しています。

そして、「公案」の「公」は、「ム」と「ハ」の合成文字で、「ム」は「囲い」を意味し、「ハ」は「開く」を意味するのでしたね。
ですから、「公」とは、今自分が遭遇している事態は、ここだけのもの、局所的な出来事なのではなくて、宇宙全体のすべての空間と、過去から現在、未来におけるすべての時間の因果関係などの、あらゆる次元における関わりから、必然的に生じている事態なんですね。

というわけですから、今・ココに、こういう事態が生じてきたことは、私や相手の人が、小手先細工でどうこう出来ることではなく、ただこういう事態が、なぜかは私の頭ではとても把握出来ないことだけれど、宇宙全体の結論として発生していて、私にとってこういう事態に遭遇することが必要であったということなのだから、ここは四の五の言わずに、そのままこの事態を素直に受け入れ、認めなければねというのが「公」が要求していることなのです。

そして、今・ココで、こういう事態に遭遇しているということが、自分にはとても理解できないことだけれど、きっとベストなことなんだというのが「案」です。

「案」という漢字は、「あるモノを、そのモノに一番ふさわしい位置に導いてあげる」という意味を持っていて、たとえば、「案内」は、やって来た人を、その人に一番ふさわしい場所に導いてあげることですね。
また、「考案」とは、「いろんな要素(機能)を、それぞれ一番ふさわしい位置に配置してあげて、全体として、最大の効果が発揮できるようにすること」ですね。

つまり、現在遭遇している事態(現成)を、拒否しないで、逃げ出さないで、顔を背けないで、そのまま我が胸にドンと受け入れ、その事態の存在を素直に認めることが出来るのが「公」で、しっかり受け入れることが出来たら、実はその事態こそが、自分にとっては最善、最適なものであったと、すぐにはとても分からなくても、やがて分かる時が来るのです。
『あの時があったからこそ、今のしあわせな自分があるのだなあ』と、有難く振り返える事が出来る時が必ず来るのです。

私は、困った事態が発生すると、いつの間にか『現成公案、現成公案・・・』と、心の中で繰り返しつぶやいていて、それでなぜか立ち直れるということに気づきました。

本能的に「現成公案」と繰り返し称えていたのですが、この文章を書く機会に、なぜこの方法が有効なのか、その理由を知ることが出来ました。

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