現成公案対話-その1-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は書籍『しあわせ通信第8集』の内容を再編集して掲載しています。

禅に興味をお持ちの、勤務先の学校のA先生との対話です。

A先生立花先生、学年文集の文章を読ませて頂き、感激でした。
実は私は若い頃から禅に興味があって、自分でも坐禅したり、生徒を連れて禅寺の禅会に行ったりもしていたのです。そして、特に道元禅師の『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』を読もうと何度もチャレンジしては失敗してきた歴史がありました。

大敬:どういう風に勉強して来られたのですか?

A:まず、岩波文庫の『正法眼蔵』を入手して読み始めたのですが、二、三ページ読むうちに、これはとても読めないなと分かったんです。

それで、秋月龍珉著の『正法眼蔵を読む』という解説本を買ってきて読み始めたのですが、これは解説に書いてあることが分かりませんでした。それから、数冊、解説本をながめましたが放置しました。

十年経った頃、石井恭二著『正法眼蔵』(全四巻)が出版されたので衝動的に買いましたが、数ページ読んで、さっぱり分からなくて断念したのです。

それから心機一転、もう一度初めから挑戦しようと思い、「読書百遍、意おのずかあらわる」と、原文とその訳(第1章現成公案のみ)を十数回読みました。読んでいるときは、分かったような気になったんですが、読み終わった後は頭に何も描けず、こころの中に結ぶ実はありませんでした。

ところがです。今回の文集に載っていた立花先生の現成公案の一節の解説を読ませて頂いて、道元禅師がおっしゃろうとなさっていることについて、私なりに具体的な像を描くことが出来たのです。十数年間霧の中だったのが、霧が晴れて素晴らしい景色がサーッと見えてきたかのようです。感激しています。ありがとうございました。

大敬:よかったですね。その状態を禅のほうでは<せいあり>といって、小さな悟りの状態なんですよ。それはやっぱり問題意識をもって長年志を持続し、努力を続けられていたからこその成果なのですから、何事も無駄にはならないということですね。

私の見るところ、先生が読まれてきた書物の著者の先生方は、なるほど禅思想の研究家として、哲学者として、有名で力がある方かもしれませんが、本気で正法眼蔵を目の敵にするぐらいの意気込みで、命がけで対決なさった方々ではありません。ですから、道元禅師の追求されてきたものの本質の部分を見届けることが出来た方々ではないので、先生が読まれても、頭の中に何も描けず、心に結ぶものがなかったというのも当然のことだと思います。

へー、そうなんですか。では、道元禅師の本質に一番肉薄出来ていると思われるのはどなただと思われますか?

大敬:それは、先生の専門である数学の分野に岡潔先生という方がいらっしゃいましたね。

A:ええ、ええ、それはもう、もちろんのこと知っていますよ。多変数関数論の分野では超一流の学者でした。

大敬:その岡先生のエッセイ(『日本のこころ』講談社文庫、『昭和への遺書』月刊ペン社)を読むと、先生の正法眼蔵理解は本物であったことがよく分かります。

A:ふーん、分かりませんねえ。岡先生は数学者ですからねえ。正法眼蔵の本質を把握するには知識の蓄積(漢文、古文の読解力、禅の歴史や用語の理解など)が足りなかったのではと思うのですが。

大敬:それはね。道元さんを誤解しておられるから出てくる疑問なのですよ。道元さんを禅の系譜や大乗仏教の系統の中で捉えようとすると間違います。道元さんは禅の学者なのではなく、『いのちの探求者』なんです。いのちの本当のあり方、正しい歩み方を徹底して学ぼう、究めようとされた方なのです。その過程で禅との出会いがあり、法華経の学びがあり・・・、されたのです。

禅などというちっぽけなものを学ばれたのではなく、いのちの真の姿を禅を通して究めようとされたのであり、法華経を学ばれても天台宗の教学を学ばれたのではなく、躍動するいのちの姿を法華経を通して見極めようとしておられたのです。

ですから、正法眼蔵の中には禅の用語やお経の文句が沢山使われていますが、それらを禅の系譜の中で、あるいは大乗仏教の領域の用語として解釈すると間違います。それらをいのちの観点から捉え直して、我が体得したいのちの真理を、それらの用語を独自の意味で、いのちの論理の構築のための素材として使用されているだけなのですから。

岡潔先生はというと、この方も実に真摯ないのちの実相の探求者でありますから、道元さんとは心の波動がぴったりで同調共鳴できるのです。それに、道元さんは決して文系的な頭脳の方ではなく、まさしく数学者のような頭脳のはたらきを示しておられます。それも、論理的にじわじわ攻め込んでゆくといったタイプではなく、直観的なインスピレーションでどんどんジャンプして進んでゆくといったタイプの方ですから、岡先生の文章と正法眼蔵の文章を読み比べると、実によく似ていることがおわかりになると思います(シャープで、キラキラ透明に輝いているんだけれど、論理の筋がなかなかたどれず、難解である)。

岡先生はエッセイの中で、道元禅師のことをよく書かれ、『私はこの方とは会ったことがある』と何度も書いておられて、これはどういうことなんだろう。前世で会ったことがあるという意味なんだろうかと不思議に思っていたのですが、『昭和への遺書』の中に書かれている記事でなるほどと納得出来ました(晩年になって、人の誤解を恐れる必要がなくなったので、思い切って自分の神秘的な体験を書かれたのでしょう)。

岡先生が正法眼蔵中の「生死去来」という語について沈思しておられた時、突然僧たちが現われ、岡先生を抱えて禅寺の一室に担ぎ込んだのです。その部屋の中央には一人の禅師が立っておられて、その左右に僧たちが立ち並んでいました。岡先生には、その中央の禅師が道元禅師であることが直覚的に分かったのでした。

畳を踏んで道元禅師に近づいてゆくと、激しい打つような威厳の気を感じて、しばらく顔が上げられなかったそうです。

しばらくして、ようやく顔を上げると、禅師は無言の説法をして下さいました。無言の説法というのは不思議なもので、それが続いている間中、岡先生は絶えず不思議な圧力を感じ続けたのだそうです(禅には言葉によらない教えの伝授、『面授』、『面受』という作法があります)。

やがてまた畳を踏んで退き、僧達に担ぎ出されたと思うと、ふっと我に帰って、自室に坐っているのに気が付いた。しかし、足の裏にはまだ畳を踏んだ感触が残っていたと書いておられます。

それから、岡先生は正法眼蔵の何処を読んでも、手に取るように分かるようになった。しかし、これは言葉で人に伝えることは出来ないのだが・・・と、書いておられます。

A:フーン、岡先生とはそんな方だったのですね、これは意外でした。私もぜひ岡先生の御本を捜して読んでみようと思います。

ところで、そういう先生の話を聞いているうちに、ますます現成公案の真の意味を知りたくてたまらなくなってきました。順に本文の最初から最後まで通して解釈して頂けないでしょうか?


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