白隠禅師坐禅和讃講義-その4-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

白隠禅師はくいんぜんじ 坐禅和讃 ざぜんわさん 

一坐いちざこうをなすひとみし無量むりょうつみほろぶ

この大乗マカエンの坐禅をすれば、これまでに犯した罪を消すことができるというのですが、どうしてそうなんでしょうか。

つみ』とは『み』です。自分という幻想の囲いの内側に、自分だけが得をすればいいと、積み重ねたモノの固まりが『罪(積み)』なのです。

そして、その固まりが我がいのち中心となってしまって、自分のいのちがその積み(罪)を中心にグルグル回転して止められなくなってしまうのです。これが輪廻です。

大乗の坐禅をすれば、幻想の囲いがほどけ、大宇宙全体とツーツー、イケイケの仲となります。流通、交流がよくなれば、氷の固まり(罪)もほぐれ、いのちの堂々巡りや停滞もなくなり、サラサラ自由に流れるようになります。

ですから、大乗の坐禅(何のためということがない、ただゆったり坐禅という形(船)に我が身と世界人類を任せて坐る坐禅)をすれば、罪が消えるのです。

法華経にも、『もし、犯した罪を懺悔したいと思ったら、坐禅しなさい。朝日が出ると、草の葉に付いた露が一気に蒸発して消えてしまうように、坐禅すれば過去の罪を解消することが出来る』とあります。

悪趣あくしゅ何處いづくにありぬべき 浄土じょうどすなわとほからず

囲いがあって換気が悪いからいのちが淀むのです。固まりがあっていのちが素直に流れないから、濁るのです。囲いがなく、固まりがどこにもない若々しいいのちこそが元気いっぱいないのちであり、そんな元気ないのちたちが住む世界が『浄土』です。『浄土』とは、宝石やお金が一杯充満している世界のことではありません。お金やモノが重たくて、動きが取れない、糞詰まりの世界は地獄・餓鬼・修羅の世界です。

『浄土』には、きれいさっぱり何もありません。だから、いのちが身軽でサバサバしています。でも、必要な時だけその必要なモノがサッと目の前に現れてくれて、必要が無くなれば、パッと消えてくれるのです。何一つ持ち物がなく、何一つ残し物がない、そんな世界こそが『浄土』なのです。

かたじけなくものりひとたびみみにふるゝとき
讃嘆随喜さんたんずゐきするひとふくることかぎりなし

以上のような教え(『法』)を聞いて、『いいなあ、ホントだなあ。有難いなあ』(『讃嘆随喜』)と素直に喜べる方は、やはりいのちが相当進化していらっしゃる方なのです。

まだエゴの面の皮がぶ厚い人はとても以上のような話が信じられません。『世の中そんな甘くないよ』と私達を逆に諫めようとします。それなら、その人が上手に、幸せに人生を渡っているのかというと、目先はどうであれ、長い目で見るとそうでもないのです。

氷の心が強い人は、どうしても、その氷の心に相当の、重く、硬く、冷たい、氷の世界に住むことになります。氷(功利)と氷がゴツン、ゴツンとぶつかって、やっつけたり、やられたりの修羅の世界で傷だらけです。

それに対して、坐禅でもやろうかというような方々は、修羅の世界(闘争の世界)が嫌いで、目立ちたくないという地味な方が多いようです。能力があって、個性派で、意思が強くて・・・といった、アクの強い人たちはあまりいなくて、どちらかというと、素直で、素朴で、人を押しのけるよりは自分が引いとこうかなといった、あっさりした方々が多いようです。宝くじが当たるような、濡れ手に粟というような派手で目立つ人生は、ちっとも望んでおられません。

それでも、長らく坐禅をしておられる方々は、その功徳でいつの間にか、いのちの実力もついてゆくようで、オレが、オレがと自己主張しなくても、なんとなく人に認められ、立てられて、その世界でリーダーともなり、一流の仕事をされて、なかなかいい人生を送っておられるようです。

若いころは、坐禅をするような方は、あまり目立たずパッとしないというか、どっちかというと、融通がきかず、損することが多いのですが、歳を取るほどいい人生が開けてきます。大器晩成、これが副作用がない大乗の坐禅の功徳(大船の乗った気分で生きられる)なんだと思います。

私は、禅会の方々に二つの事しか教えていません。『心配いらんですよ。大丈夫ですよ』という事と、『そのままでいいんですよ』という事だけです。

そうして、その二つが『その通り』とハッキリ実感できるのは、自分が自分に落ち着け、世界が世界に落ち着ける、そんな大乗の坐禅の中でなのですから、ぜひ坐禅だけは続けてやって頂いてそれが本当だと確認して頂く。本当にそれだけで人生万事OKなんです。

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