白隠禅師 坐禅和讃
いはんや自ら回向して 直に自性を證すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
悟った方の教えを聞いて素直に喜び信じられる(『随喜』)だけでも、以上のような功徳があるのですから、いわんや自身が、外に向かって無駄に発散していた生命エネルギーを自身に収束させて(『回向』)、自分のいのちの本質(『自性』)を発見できたとしたら、そうなったらもう、自分だけの満足だけでなく、世界全体の人々をも、その解放感と喜びの中に巻き込んで、大らかな、楽しい人生が展開してくるのです。
自分のいのちの本質を発見するとは、本当は、自分という囲いなんてどこにもない(『無性』)ということを発見することなのです。
ですから、それからは、自分という固まりが無いから、大宇宙の意図のまま、どういう形にでも、自分を自由に形成でき(必要がなくなれば、すぐ消せる)どの方向にでも自在に動いてゆけるようになるのです。そうして世界の人々を誘って、ひとついのちのゴールに向かって進ませることが出来るのです。
それからはもう頭で『かくあらねばならない(『戯論』)』と力んで考え、事前に『ああして、こうして』などと計画して行動する必要はなくなります。大宇宙さんの頭が計画を練ってくれ、必要なモノやお金、人材も取り揃えてくれるのですから、自分は目の前に提供された課題をホイホイやっつけてゆくだけだということになるのです。
因果一如の門ひらけ 無二無三の道なほし
『こうしたいなあ』と思う(『因』)と、すぐ(『一如』)その思い通りの現実が現れる(『果』)ようになります。
なぜそうなるのかといいますと、『こうしたいなあ』と思うその思いが自分の思いでなく、大宇宙さんの思いとなってくるからです。大宇宙さんの思い以外のエゴの思いを思わなくなるので、何事も思い通りにすぐ叶うということになるのです。
また、人生において、どっちの道を進めばいいのかといった迷いがなくなります。なぜなら、東西南北、どの方向に進んでも、結局『ひとついのち』というゴールにたどりつくことになるんだということをハッキリ知ったので、この道はだめ、この道でなきゃだめなどという選択や決断の必要がなくなるのです。
どっちに進んでもいいのです。回り道でも、逆戻り道でも、道はただ一つしかないのです。みんなで一緒に、手に手を取り合って、万人二脚で『ひとついのち』というゴールに向かって進む道しかない(『無二無三の道直し』)のです。
無相の相を相として 行も帰るも餘所ならず
いのちに固まりがなく、いつもすっきり透明(『無相』)なので、どんな形でもとれる(『相』)のです。ある時は『仏』となり、でも次の瞬間にはもうその『仏』はきれいさっぱりなくて、直ちに『閻魔』さんのような怖い顔にもなれるのです。
どこへ行っても、帰っても、あなたは常に『いま・ココ』にいますね。未来へも、過去へも、いのちをフラフラさせず、『いま・ココ』にあなたが落ち着けたら、その『いま・ココ』こそが大宇宙の中心だということに気が付かれます。どこへ行っても、帰っても、泣いても笑っても、ひっくり返っても、あなたは大宇宙の中心を微動だにしません(『餘所ならず』)。
無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の聲
自分という固まりがないので、念が心にこびり付く(固着する)ということがありません。これが『無念』です。そういうすっきりした心にスッと現れてくる念いは大宇宙さんの智慧からやってくる念いで、大宇宙さんの必要が生み出したアイデアなのですから、世界人類の為になる素晴らしい発案であり、そのアイデアはすぐ実現するのです。
また、このように大宇宙さんの心を我が心とし、大宇宙さんの思いを我が思いとして振舞えるようになった時、常に大宇宙さんの流れのまま、それに逆らうことなく行動できるようになるので(『法』に沿った行動)、歌っていても、舞っていても、そのいのちの流れが大宇宙さんの意思そのままの動きであり、だからちっとも違和感がない、無理や無駄のない、絶妙の振る舞いとなるのです。力みかえって『世界人類のために』と、眼を吊り上げて命がけで行動しなくても、子供と歌ったり、楽しく踊っている今、実は大宇宙さんの人類進化のプログラムのために最大の貢献をしている。人知れず、我知らず、そんなことがやってのけられるようになるのです。