現成公案対話-その2-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は書籍『しあわせ通信第8集』の内容を再編集して掲載しています。

前回の続きです。1回目はこちら


大敬:ええ、只今現成公案の全文の講義を執筆中で、ほぼ完成しましたから、近いうちに本にして、プレゼントさせて頂きます(『あなたに起こることは、すべて宇宙のはからい-現成公案読解-』(Total health design))。

取りあえず今日は『現成公案』という表題の意味を解釈しておきましょうか。この表題に、本文全体の内容が上手に要約されているのです。

A:そうですか。それは有り難いです。ぜひお願いします。この表題からして、私にはさっぱりなんですよ。
確か、岩波文庫本の注釈には、現成公案とは『現実はあるがままで何不足ない真実であり、万物は分を守って平等であること』と書いてあったと思うんですが、それがどうなんだ、だからどうなんだという感じで、私にはちっとも切実感がない、ぴったり来ないんですよねえ。

大敬なるほど、そうでしょうねえ。道元禅師はそんな観想的な、観念的なことを伝えたかったのではない(それなら華厳経を読めば済むこと)ということは、現成公案の本文をじっくり読めば明らかなことなんですけどねえ。現成公案で説かれている事は、もっとダイナミックで、具体的で、行動的な真理なんですよ。

A:では、現成公案という言葉の本当の意味をお教え下さいますか?

大敬もちろんのこと、そのつもりです。現成公案の意味を二つに分けて考えてみましょう。

一つ目は「現成(現在に成りきること)が実現すれば、必ずそのいのちは公案となる」という事で、二つ目は「公案は必ず現成(実現・成就)される」という事です。順に説明してゆきましょう。

まずは「現成(現在に成りきること)が実現すれば、必ず公案となる」からです。

この場合の「現成」とは、「実の我が身と心を総動員して、今・ココで出会った課題に取り組んで行く。その課題にりきってゆく(在にりきってゆく)」ということです。

いのちの重心を、現在(今・ココ)に据えて実践してゆけるようになると(過去にも、未来にもいのちの重心がふらふらしない)、必ず「公案」という状態になってくると言うわけです。

そうすると、今度は「公案」の番ですね。これはどういう意味なんでしょう?

大敬:「公」とは「ひとついのち」のことで、「案」とは、「個々のいのちがふさわしい位置に落ち着け、全体に調和した行動が取れる」ということです。

A:えっ、ちょっと分かりませんが・・・

大敬:もちろん、それで分かるくらいなら苦労はしません。詳しく説明しましょう。

「公」という漢字は「ム」と「ハ」から構成されていますね。この「ム」は「囲い」を示し、「ハ」は「開く」という意味なのだそうです。

「公」の反対語は「私」で、ここにも「ム」がありますね。これも囲いです。そして、「禾」は「稲束」を示しているのだそうです。つまり、稲束で代表されるような財産の周りを囲って、自分だけのものとして独占するような態度が「私」なのです。

「公」はその反対で、自他を分ける仕切り、囲いを開いて、自他のいのちをひとつにする態度、そういう行動が「公」なのです。

人が今・ココにいのちの重心をすえて、本腰で只今の課題に取り組んでいるとき、我を忘れ、没頭している(頭による相対価値比較を没している)のですから、自他の仕切りは自ずと消えてしまっているのです。つまり、「公」の状態となっているのです。宇宙万物と生き通しの自分となっているのです。だからこそ、目の前の課題に集中し、命がけで取り組む時、自分の能力の限界をはるかに超えているような力や智慧がはたらき出して、自分も他の人たちもその成果に驚くといったことも起こるのです。その時は、宇宙全部が自分なのだから、宇宙全体から必要なパワーや智慧が集まってきます。

A:なるほど、自我性というのは自他を分ける囲いだから、その囲いが結局自分の能力を制限する囲いにもなってくるのですね。そして、そのような自己制約の囲いを消す方法として、「現成」という生きる姿勢があって、「現実のこの身、この心で、今・ココの課題に成りきってゆきさえしたら、自ずと「公」という、宇宙ぶっ通しのいのちの状態、宇宙全体の存在とひとついのちの兄弟であるという状態」になれるというのですね。

大敬その通りなのですよ。そして「公」になったいのちは自ずから「案」の行動が出来るようになるのです。

A:さて、今度は「案」ですか。これはどういう意味なんでしょう?

大敬:「案」という漢字は、「安」と「木」から構成されています。「安」とは、「それぞれのものを、その特性にあわせて、いちばんふさわしい位置に置いてあげる(いいあんばい案配にする)こと」だそうです。そして、「木」は安定させるための「支持台」を表すのだそうです。

たとえば、「案内」とは、やって来た人の用事を聞いて、その人を一番ふさわしい部署に導いてあげ、落ち着かせてあげることですね。

「発案、考案」とは、いろんな要素や部品をその特性に合わせて、一番ふさわしい位置に配置してあげて、全体として素晴らしい機能を発揮する製品を創ろうとする意図のことですね。

人の現成状態が深まって、ついに「公」の段階となると、その人のふるまいはおのずと順序よく、無理、無駄なく段取りされ、空間的には、自分も人も、その特性をバランスよく生かしながら、全体として最高のはたらきが出来る、そのような「案」の行動となってくるです。

A:それは実に不思議なことですよねえ。まず、関連情報、データを収集し、起こりうるあらゆる状況について考え、損得を計算し、手順を組み立て、それから決定して行動する。そのように頭脳をフル回転させることによってはじめて最適な行動が取れるのだ、というのが現代の常識というものですよねえ。

大敬:ところが、現代人が信仰するほど頭脳という道具は優秀なものではないのです。そのことは、道元禅師も現成公案の本文中で繰り返し強調しておられましたね。頭には目先の事しか見えないし、あらゆる要素を考慮した完璧な計算もできません。ところが、いのちの本能は、永遠と無限の広がりの中の無限の要素についてことごとく配慮し尽くした自他のいのち全体にとって最善・最適な行動を、瞬時のうちに選び取って実行することが出来るのですよ。

A:ヘェー、それはすごいことですねえ。本当にそうなのでしょうか。何か実例をあげて頂けないでしょうか?

大敬:岡潔先生が書いておられましたが、先生が数学の研究に本当に没頭している時は、殺生をしない。肉を食べない、虫も殺さないし、若草の新芽も踏まないように避けて通るようになるというのです。これは、モラルとして『こうせねばならない』と頭で判断してそうするのではなく、自然とそうなるのだと書いておられます。

つまり、数学研究に没頭して自我性を超えた時は、おのずと自他の区別の囲いが外れた「公」の状態となって、全体の生命を生かすような「案」の行動が取れるようになる、それがいのちの本能なのです。

もうひとつ例をあげておきましょう。新体道の青木宏之先生の例です。

先生は身の悟りを開いて(いつでも瞬時に「公」の状態に入って「案」の行動が取れるようになって)、いつ、どこから攻撃されても確実に避けることが出来るようになったのです。ですから、弟子たちには、いつ攻撃してきてもいいよと許可を与えていたのです。
ある時、練習合宿をしていて、ある弟子が不意に攻撃してきたのです。いつもなら簡単に避けらるような攻撃なのに、この時は弟子の突きを胸に食らってしまったのです。 さてそれが先生には不思議でしかたなかったのですね。どうして避けられなかったのだろう。そこで、その時の光景をズーッと回想してみたのです。すると、なるほどと気づく事があったのです。あの時、先生が立っておられた場所の背後にはガラス窓があったのです。ですから、もしその弟子が突いてきた時に、先生が避けていたら、その弟子の拳はガラスに突入して大怪我となっていたことでしょう。

ですから、「公」の状態には、自他の別はなく、全体のいのちが最高に生きる状態となるよう案配する行動を選び取ってすることになるので、この場合は、弟子の手の負傷を防ぐことを優先して、先生は自分の身をもってその弟子の拳の負傷を防いだのです。いのちはそのように「公」の状態になると、自ずと自分のためばかりでなく、全体生命が生きる方向に行動するようになる、これがいのちの本能なのです。

雁の渡りの時もそうでしたね。弱い雁や年老いた雁、幼い雁を強い風や災害から庇うように、自然に列の並びや方向、角度を決めながら飛んでゆきますし、パイロット役となる、列の先頭の雁は大変疲労するので、交代が必要になった時に自然と次の雁と交代します。次の雁はそのパイロットの位置に付くと、その役割がちゃんと果たせるだけの能力が備わるのです。これらも、頭の判断による道徳的活動というわけでなく、個人の努力や能力というわけでなく、いのちの本能としてのはたらきを発揮するのです。


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※『あなたに起こることは、すべて宇宙のはからい-現成公案読解-』(Total health design)という現成公案の解説書を出版しています。お読み下さい。

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