しあわせ人生の扉を開く

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信204号」の内容を再編集して掲載しています。

今年(平成29年8月)のトータルヘルスデザインさんの「美と健康セミナー」のお話しのテーマが「しあわせ人生の扉を開く」だったので、「しあわせ」というコトバの語源を、あらためて調べてみました。

古語辞典によると、「しあは(わ)せ」は、「為合しあは(わ)せ」なのだそうです。

」は、「『する』という動詞の連用形」で「動作、行為」のことです。
そして、「合は(わ)せ」は、「二つ以上のものがピッタリ寄り添うこと」を示すそうです。

つまり、「しあわせ(為合わせ)」の第一番目の意味は、
① 一連の行為が、次々、ピタッ、ピタッと「ツボにハマッテゆく」状態をいうようです。そんな状態になった時、人は「しあわせ」を感じるのですね。

こんな状態を、「同時性現象」といったり、「スムージング効果」といったりする研究家もいます。

「同時性現象」というのは、たとえば、『こんなモノがあればいいなあ』と、心の中で思っただけなのに、なぜかすぐにその欲しかったものが手元に届いて驚くというような現象をいいます。
つまり、「想い」が、ながい時間経過を経ないで、直ちに現実化するような現象を「同時性現象」というのです。

別にそのモノを手に入れるために計画したり、作戦を練ったりしていたわけではないのに、偶然のようにして、そのモノが手に入ってしまうのです。こういう「偶然のハッピー・ハプニング」のことを、「セレンディピティ」と呼んだりします。

白隠さんは、『坐禅和讃』の中で、こんな「同時性現象」のことを「因果一如の門ひらけ…」と記しておられます。
つまり、因(想い)と果(現象化)が、時間経過なしに一気にピッタリと寄り添ってひとつになる(一如)のです。

また、「歌うも舞うものりの声」ともおっしゃっています。
何をしても、その動作ふるまいが、まるで太極拳や合気道を舞っているかのように滑らかに円を描いているようで、こうでしかありえないという絶妙の軌道にピッタリはまって動いているなあという実感がするのです。

その行動にはどこにも無理・無駄がなくて、宇宙の大法の流れにフワッと浮かんで、その「間違いのない大宇宙の意志の流れ」のまま自分は動いているんだと実感出来るのです。神道でいう「神ながら」という状態が実現するのです。そんな時、人は「至上のしあわせ」を体験します。

こんな状態を「フロー感覚」、あるいは「ゾーンの入る」などと呼ぶ人もいて、各スポーツ競技の達人達は、自分でも信じられないような、自分の従来の能力を超えた、神がかりのような素晴らしいプレーが出来た時は、必ずそんな「フロー状態」を体験しているのです。

「スムージング効果」とは、たとえば、車を運転していて、『ああ、赤信号だ。止まることになるなあ』と思っていたのに、その信号機に到る直前に信号がパッと青に変わって、減速や停止の必要なしに通過出来、そんな状態が信号機ごとに次々続いて起こるというような現象をいいます。
また、満車で待たされるなあと覚悟していた駐車場で、うまい具合にすぐ空きが出来たり、満員列車なのに、あたかも神さまが私のために取っておいてくれたかのように、一つだけポッカリ空席が出来て、すぐに座れたりするのも「スムージング効果」です。

仕事の面においても、なぜか次々「空席」のポストが出来て、自分がすぐにそのポストに座ることになり、トントン拍子に昇進・出世してゆくというのも「スムージング効果」です。

逆に、「ふしあわせな状態」の時は、やることなすことツボにはまらず、ギクシャクしたり、食い違ったり、関係者と利害関係で衝突、争いが起こったりするのです。

このように、すべての行為において、ピタリ、ピタリとツボにはまり、「同時性現象」、「セレンディピティ」、「フロー感覚」、「スムージング効果」などが次々起こってゆくとき、人は「しあわせ感」を得ます。

つまり、スラスラ、ピタピタ、スイスイ、ノリノリで生きてゆけている時、人は「しあわせ」を実感するのです。

つぎに、「しあわせ(為合わせ)」の二番目に意味は、
② 共通の目標に向けて、すべての人やモノや現象が一体化して、連帯協力して行動出来ており、自分もその目標達成に向けて大切な役割を果たせている、貢献出来ていると実感出来るとき、人は「しあわせ」を感じるのです。

つまり、「連帯感」と「貢献感」が実感出来る時、人は「しあわせ」を感じます。

以前、「ふしあわせ感」、「しあわせ感」とはどういうものなのか、まとめて表にしたことがあります。
それによると、「ふしあわせ感」は三つに分類され、(貧しい・淋しい・虚しい)でした。そのそれぞれと反対なのが「しあわせ感」で、(豊か・にぎやか・生きがい)です。

「しあわせ感」を構成する第1要素の「豊か」は、単に財産家であるということではなく、すべての人や世界とつながっている、いのちが通い合っているという感覚のことです。つまり、「いのちの一体感」のことです。

「にぎやか」というのは、どの人も、ともに同じゴールを目指して手を取り合って歩む同志、仲間なんだと自然に思える感覚で、つまり「連帯感」のことです。

「生きがい」とは、その共有する目標に向って、自分が大切な役割を果たしているんだという満足感、充実感のことで、つまり「貢献感」ですね。

つまり、人は他の人や世界との間で「一体感」、「連帯感」、「貢献感」を実感できる時、「しあわせ」と感じるのです。

その「しあわせの三要素」のうち、一番大切なのは、やはり「いのちの一体感」です。
この「一体感」の自覚が「連帯感」や「貢献感」を生み出すのです。

つまり、人は「いのちの一体感」を自覚する度合いが大きいほど、大きなしあわせ人生を送ることが出来るのです。

では、どうすれば「いのちの一体感」を自覚できるのでしょう。

よく、「大敬先生の『ひとついのち』のお話しは納得できて、そうだその通りだと身心に喜びが満ちるのですが、残念ながら『ひとついのち』をなかなか実感出来ないでいます」とおっしゃる方がいます。
 
それは当然のことで、人類の魂の進化の現状は、ようやく「個の確立」というステージを終えて、「いのちの共有化」のステージに踏み込んだというところで、今は丁度その二つの時代の端境期で混沌としているわけですから、まだまだ「いのちの一体性」の自覚なんて、そうそう簡単には得られません。
お釈迦様だって、イエス様だって只今修行中で、まだまだ本当の一体性の自覚を得ておられないのです。
 
というのは、現に私がアレコレ迷ったり、悩んだりしています。
お釈迦様と私は「一体のいのち」なのですから、私の迷いは、実はお釈迦様の迷いでもあるのです。
ですからお釈迦様が今もなお迷っておられるということで、まだまだお釈迦様も、本当に「いのちの一体性」の悟りを達成しておられないということなのです。

私が本当に「いのちの一体性」の自覚を得た時、お釈迦様も同時に「いのちの一体性」の悟りを得られることになるのだし、その時、イヌ君もネコさんも、山も川も木々も同時にその悟りを獲得するのです。

ですから、私たちの「いのちの一体性」の自覚が本物になるのは、まだまだ先のことで、あせることはないのです。

こんな大敬の、「いのちの一体性」の話を聞かれて喜ばれるだけでもすごいことで、それは皆さんが、実は現在の人類の進化の最先端を行っておられる方々なんだということの証拠なのです。

ですから、まず「いのちの一体性」について教えて下さる先生や経典(法華経など)からしっかり学び、アレコレの出来事が起こってもフラフラしない自分になりましょう。

さらに、坐禅をしたり、お経を称えるなどというという行をされると、その行のあいだだけでも、「個」の囲いが薄くなったり、ほどけたりして、身心がずいぶん楽になるという経験をします。
「いのちが楽で、うれしい方が本物なんだ」と納得でき、少しずつ「個の囲い」がほどけた人生を送れるようになります。

そうすると、「同時性現象」や、「スムージング効果」や「フロー状態」などの奇跡(本当は当たり前のことなんですが)のようなものを次第に体験するようになり、さらに「いのちの一体性」が真理だと確信できるようになるのです。

さらに、困っている人やイキモノに救いの手を差し伸べ、足を運ぶという「布施ふせ行」によっても、「個の囲い」を突き破ることができます。
「布施行」が「いのちの一体性」を培うというのは、人やモノに手を差し伸べ、足を運んだ時に体験する喜びと、大きな開放感と、光いっぱいの感じで確認できるのです。 

以上の三つの行で「いのちの一体性」の自覚を養い、「しあわせ人生への扉」が開けます。
つまり、「聞法もんぽう行(ひとついのちの教えを聞く)」と「坐禅・読経どきょう行」と「布施行」です。

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