懺悔について

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信151号」の内容を再編集して掲載しています。

道場にいた時、Kという雲水(修行僧のこと)さんがいました。
Kさんはカトリック信者でした。
禅僧でカトリック信者だ、などというと不思議に思われるかもしれませんが、禅は宗教以前の真理、むしろ宗教がソコから創造されてくる根源的なモノを追求するのですから、Kさんがカトリック信者であっても、ちっとも不思議ではないのです。
私がいた寺にも、キリスト教関係の、特に外人さんが沢山いましたし、通いで坐禅に来ている外人さんも多かったです。ユダヤ教の人もいました。

私も、禅の真理が分かるようになって、一気に他の宗教の神話や教理の意味がハッキリ見えてきました。
他の宗教の尊さ、有りがたさも見えてきました。
また、そうでなくっちゃあ、禅の語録しか理解出来なくて、他宗を馬鹿にしたり、排斥するようでは、とても真に禅の悟りが得られたとは言えないのです。
 
私が、聖書の一節を引用したり、念仏や法華経を説いたり、さらに黒住さんや金光さん、天理教などまでも解説したりするのは、私には当然で、自然なことなのです。
白隠さんでも、道元さんでも、今の時代に生きておられたら、当然のこと私のように振る舞われたはずです。

さて、Kさんのことですが、ある日、托鉢たくはつ(一軒づつまわって、お金などの施しを乞うこと)で町に出たときに、教会に出くわしたので、入っていって、僧侶に告解(カトリックで、犯した罪を僧を通して、神に懺悔する行為)をお願いしたのです。
雲水姿のKさんを見て、カトリックの僧侶も、さすがに抵抗を感じたようでしたが、結局許可してくれて、無事告解できたそうです。

このKさんは面白い人で、もとは高校の数学の先生であったそうですが、辞職して、大阪のあいりん地区に入って奉仕活動しました。
それから、全国放浪の旅に出ました。お金をまったく持たずに出発し、お腹が空いたら、目についた家に入って、玄関で「お腹が空きました。ご飯を下さい」といったら、たいていの家で、食糧を頂けたよと、Kさんは言っていました。
その旅の途中で京都の道場にたどり着いて、出家したわけです。

さて、カトリックには、このように懺悔のシステムがあるわけです。そのおかげで、カトリック信者が多い地区では、心の病の率が低いのだそうです。
罪をいつまでも自分の心に抱え込んでいる必要がない。辛くなったら、重荷を神に預けてしまえばいいからですね。

仏教にも、懺悔(仏教では「さんげ」と読みます)ということはあって、初期の頃の仏教では、罪を犯したら、僧の集会で告白して、許しを乞うという儀式があったそうです。
 
大乗仏教では、全員の前で告白するという必要はなくて、懺悔の際には、仏や菩薩さまの絵や像や写真の前に坐って、犯した罪を告白して許しを乞います。
それから、立ち上がって懺悔文(禅の会でいつも唱えていますね)を唱え、読み終わったら五体投地(礼拝)します。これが1ラウンドです。さらに、もう一度立ち上がって、懺悔文を読み、礼拝し・・・、これを繰り返します。
懺悔文を紹介しておきます。五体投地の方法はインターネットで検索して下さい。

懺悔さんげもん

我昔がしゃく所造しょぞう諸悪業しょあくごう 皆由かいゆう無始むし貪瞋痴とんじんち 従身口意じゅうしんくい之所生ししょうしょう 一切いっさい我今がこん皆懺悔かいさんげ

<訳> 私が作ったさまざまな悪業は/すべて限りない昔から連綿と続いてきた貪りと怒りと愚かさから生じてきました/それらの悪業は、身や言葉や心によって生じます/それらの悪業の一切を、私は今懺悔します。

この懺悔は何回とは決まっていなくて、自分が納得できるまで、罪が解けたと実感出来るまで、何回も、何日間でも、何年間でもやり続けるのです。

天台大師の『天台小止観』には、懺悔行のなかで、こういう心理的体験をしたら、罪が神仏から許された証拠だと、いくつかの例が紹介してあります。

  1. 心や身が軽くなって、光や透明な空気にでもなったような感じがする。
  2. ぐっすり眠れるようになる。
  3. 理由なしに、いのちの内奧から、フツフツ喜びがわき出してくる。
  4. 人やモノや、出来事の善意に包まれている自分を感じる。
  5. 自分を含めてすべてのモノが、存在を許されている、存在することが全体のいのちのために、必要なんだと分かる。
  6. 自分の過去の体験も、進化のためにどうしても必要な体験であったんだと分かる。
  7. 最後に、罪は本来無いんだと分かる。

すごいですね。これはまさに悟り体験で、ここまでいかなくても、自分で納得できるまで懺悔行をすればいいのです。

松居桃楼先生が面白い懺悔法を紹介しておられます(『微笑みの禅』潮文社)。

先生は、この(1)から(7)までの、罪が許された状態に記述を読んで、これは要するに、心身の凝り、固まりが解けた状態のことなんだと捉えたのです。

『罪』は『積み』で、『詰み』ですね。要するに、『罪』の状態とは、心と体にこだわりや許せない部分があって、それで、身体や心の特定の箇所(その場所は罪の種類によって違う)に固まり、血液や栄養分がうまく流れていかない箇所が出来る状態なわけです。

ですから、『罪』がゆるされたとは、心身がほどけて、柔軟になり、ゆるくされた状態となった時です。つまり、(1)の状態さえ実現できれば、(2)から(7)までは、自然と体験できるものなのです。

ですから、懺悔で大切なのは、心身をほどくことで、たとえば、先ほど紹介した大乗仏教の懺悔法でも、このような礼拝行を繰り返せば、自然と汗をかき、新陳代謝が活発となり、筋肉などの緊張部もほぐれてきます。自ずと心身柔軟となりますから、『罪』が解消するのです。

松居先生は、銭湯にいって床に大の字に寝る。すると、心身がほぐれて、宇宙と一体である。善意につつまれて生かされている自分であると実感出来る。これが私の懺悔だと言っておられて、面白いと思いました。

私の場合は、坐禅が懺悔なのです。

私の坐禅は、ただ坐る坐禅です。ただ、正しい姿勢を目指して坐ります。しかし、なかなかいい坐禅になりません。どこかに、こだわりがあり、人や自分に許せないモノがあるから、それが坐禅の姿勢の歪さに現れるのです。
ですから、体が微妙に、前後左右に傾きます。それに気づくたびに、もとの姿勢にもどします。
体のある箇所が緊張していることに気づきます。そうすると、すぐその箇所の緊張をほどきます。そういう微妙なチェックを重ねながら、ただ坐っているのです。これは、努力ではありません。ムダな抵抗をやめて、一番自然で楽な体勢に復帰するだけだからです。

そういう坐禅を何十年と重ねていくうちに、坐禅以外の場面でも、違和感が生じれば、その原因となっている、体の緊張している箇所にすぐ気づき、すぐそこをほどくことが出来るようになってきました。そうすると、『罪』を『積み』にし、『詰み』にこじらせる前に次々、ほどいてゆけるようになります。
ですから、私の坐禅は懺悔法でもあるのです。

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