原点はお伊勢さん

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信199号」の内容を再編集して掲載しています。

26年ぶりで、伊勢神宮にお礼参りを果たすことが出来ました(2017年のことです)。

42歳の時、伊勢の内宮ないくうさんにお参りして、『これからは神様のお役に立てるような人生を歩ませてください。お前には神の役はつとまらないよとおっしゃるなら、もう生き続ける意味がありませんから、いのちは取り去って下さい』と、覚悟のお祈りして、突然天と地を結ぶ柱が立って、その柱の中に私がいるという体験をしたのが、それから後の私の人生の原点となったのです。

その時は、息苦しさ(生き苦しさ)がなくなり、息通し(生き通し)の解放感があったということだけで終わりました。

それからしばらくして、夢の中で、「『ひ』が君を使うがいいか、『ひ』が来るけれどいいか」と問われて、「ハイ」と受諾するということがありました。
その受諾の後で、心構えのような注意も受けたと思うのですが、その中に「プラスティックであれ」というのもあったように思います。
『ひ』という神様が望まれる、どのような「型」にも、柔軟に対応して「成型」できるようであれということですね。

それら一連の対話があってから眼が覚めて、その問答をメモして、すぐまた眠ってしまいました。

朝起きて、その問答文を見たのですが、何のことかさっぱり分かりません。
夢の中ではハッキリ意味が分かって、覚悟の受諾をしたはずなのに、そうなのです。  

それから、また何日か経過して、私は昼寝をしていて目覚めました。
はじめは、ボーっとしていたのですが、次第に意識がハッキリしてきて集中してゆきました。

日常生活中の程度に意識が集中し、それで終わりなのかと思っていると、さらに意識集中が続き、禅の公案や物理の難問を解こうと努力している時ほどの集中度に達し、それでもその集中過程は収束しないで、さらにどんどん意識が一点に凝縮していって、それから一気に天に向って上昇してゆきました。

そして、ついに天界に達したぞと実感出来た瞬間に、天界からスルスルスルと、なにやらメッセージの小包らしきものが降りてきました。
そして、その「天界からの便り」が私の心に確かに収納されました。
 
私には、そのメッセージの内容が読み取れませんでした。
しかし、心の中のその小包をジッと見つめていると、包装紙が解けて、やがて一気に文章が流れ出したのです。次々と、切れ目なく文章が湧き出して止まないのです。

私は、その文章を大急ぎで小さなメモ帳に書き出してゆきました。
そして、一週間ほどの間に、四百字詰め原稿用紙に三百枚ほどの分量となりました。

その原稿を東京の出版社に送ったところ、すぐ出版したいという返事が届きました。
それが、私(?)の処女作である『天界の禅者大いに語る』(潮文社)です。

それから、立て続けに三冊の本が出版されましたが、私にはここまでで限界だなあ、これ以上書いても意味がないという感じがしたのです。

もちろん、天から届いたメッセージは、これくらいの小さな分量のものではありません。
一生いっしょう受用じゅよう不尽ふじん」(その小包からはいくらでもメッセージを取り出せる。一生涯汲み取り続けても、ちっとも減ることはない)なのです。
人類の進化完成時までに必要な情報がすべて内蔵されている小包なのです。

しかし、当時の私には、これ以上、この小包からメッセージを「ほどいて取り出す」ことは出来ないという自覚があったのです。
それで、筆を断って、ふたたび「暗中模索の時期」を迎えました。

その時、福岡の友人が電話をくれて、福岡一の中高一貫の進学校が物理の先生を募集していると知らせてくれたのです。

私はもう45歳になっていましたし、また物理は専門外だったのですが、とりあえず履歴書を送ったのです。
定職にも就かず、フラフラ人生を生きてきたことが一目瞭然の履歴書です。

そして、大阪から福岡まで面接に行ったのですが、物理の採用テストを受けてくれと、突然言われたのです。
私は物理は専門外で、勉強したことがないと正直にお話しして謝り、テストを受けないで、『ああ、やっぱりだめだったなあ』と、大阪に帰ったのですが、なぜか正教諭として採用したいという通知があったのです。
本当に神様は、必要となれば、どんなことでもやってしまうのですね。

このような奇跡のような形で、教師になれたのはなぜかというと、私は、この歳まで一度も社会に出て、組織の中で仲間と協力して責任ある仕事をするという経験がなかったのです。

しかし、そのような社会的経験と学びがないと、心に収納されている天界からのメッセージを、これ以上取り出すことが出来ないのです。
それで、神様は、私にそんな社会経験を積ませるために、かなり強引な形で、私を教師として就職させてしまったのでしょうね。

ところが、そんな素人教師なのに、一年目から全国模試で、何度も全国1の成績をとらせることが出来たのです。

そのように、教師になって3年間は、教えることに専念していたのですが、ここでもまた限界を感じるようになりました。

このまま、教師として終わってはいけないのではないか。
自分の世間的な評価と安定のために、神様との約束を忘れてはいけないぞと思ったのです。
 
このまま教師だけをやっていたらだめだ。
世のため、人のために行動をスタートさせなければ、私の精神は崩壊してしまうぞと追い詰められたようになって、ついに『しあわせ通信』をスタートさせたのでした。

以前の四冊の著作と、しあわせ通信の文章の違いはどこにあるのかというと、教師としての社会体験から『心』を発見し、『心』の機能を知ることが出来、『心』の機能を活用して、どんな人でもしあわせな人生をおくることが出来る方法を、皆さんにお伝えすることが出来るようになったというところだと思います。
 
この頃、『金平糖大作戦』という、人類の魂の進化モデルを、ついに「天から届いた小包」から取り出すことも出来ました。

そして、『しあわせ通信』にそれらのことを書いたところ、たくさんの方が共鳴してくださり、池田光さんが本心庵からシリーズとして、出版してくださり、目下第十巻まで出版されています。

学校のほうでも、さらに成長がありました。
私は、人と一緒に協力しあって活動するということが苦手なのです。
それなのに、この学校に就職して10年目に総務部長をやれ、ということになって、他の先生方はビックリして、「サプライズ人事だ」と言っていたそうです。
集団の中で、人を束ねたり、役割を割り振ったり、綿密に行事計画したりする仕事のやり方を学ぶことができました。

総務部長は7年やり、停年退職まであと少しとなったので、あとは原点に戻って、心ゆくまで授業に専念させて欲しいと校長にお願いして、総務部長を辞める了承を得ていたのですが、ある日突然、中学の教頭をやって欲しいと頼まれました。

一番苦手な分野の仕事なのでショックでしたが、私はその頃までには、やってきた仕事は引き受ける、苦手な仕事ほど成長の糧なんだと覚悟が決まっていたので(ドアが開いたら入れということ、席があったら座れということ)、躊躇ちゅうちょなく中学教頭を引き受けました。その時は、「大逆転人事」と評されていたようです。

2年後には高校教頭になりました。その時は、「順当人事」と言われたそうです。

中学教頭の依頼を受けた時、校長はこうおっしゃいました。
「立花先生は、取り立てて何かの才能があるというわけではないけれど、先生がいるとなぜかみんなが落ち着くので、別に何もしなくていいですから、とにかく教頭の席に座っていて下さい」

そうおっしゃったので、教頭になってから新規なことは何もやらないまま終わりましたし、5時になると、サッサと帰宅するという、変な教頭だったのですが、それで非難を浴びることもなく、それに不思議なことには、学校としての成績も一気に上がったのです。

これまで、九州で2位、3位という進学実績の学校だったのが、私の教頭在任中は、九州トップの進学校になりました。

不思議ですね。
何も特別なことはやらないのだけれど、勝手に関わりのある組織、集団が改善されてゆくのです。

外に見えて何かをするわけではないので、誰にも誉められることはありませんが、そのほうが奥ゆかしくていいですね。

私の心に収納されている「天からのメッセージ」には、まだまだたくさんの未開封の部分があって、私の地上での成長と共に、少しずつ開封されて読み取れるようになってゆくでしょう。
果たしてどんな素晴らしい情報が隠されているのでしょうか。とても楽しみです。

このように、42歳で伊勢にお参りして決意表明してから、私の人生は一気に変化しました。

ふしあわせな人生(まずしい、さびしい、むなしい)から、しあわせな人生(ゆたか、にぎやか、いきがい)への変化です。

しかし、一気にと言いましたが、私の場合は、3年間ぐらいの時間差がありました。
42歳の決意表明から45歳で就職するまでの3年間が、私にとっては一番どん底で、苦しい時期でもありました。

本当は、想いが変わると、一気に環境が変わる(天界はそういう世界です)はずなのですが、その人が過去から積み重ねてきた「いのちの傾向性」(仏教でいう「業」、物理学では「慣性」という)が、変化を邪魔するのです。

覚悟を決めて跳び込んでゆけば、運命が変わるのだということと、しかし、一気にというわけにはいかないこともある。時間差があるということも、あわせて知っておいてください。

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