楊岐の場合-永平知事清規を読む(4)-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信186号」の内容を再編集して掲載させていただいています。

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今回は、楊岐ようぎ方会ほうえ禅師の修行時代の話です。師と弟子の組み合わせ具合が絶妙で、面白い話になっています。

楊岐さんは慈明じみょう禅師の弟子で、後ほどの話でお分かりになると思いますが、師の慈明という人は、何とも気随気ままに生きた人なのです。
一方、楊岐さんは、実務派で、緻密で行き届いた仕事が出来る人だったようです。

面白いものですね。創造的で自由奔放な人のもとには、実務的で着実に仕事が出来る人が必ず現れて補佐し、成果が上がる仕事となるのですね。
実業界でも、宗教界でも、こういう組み合わせ、役割分担がうまく機能した例が数多く見られます。

そんな絶妙の組み合わせで、実務堅実派の楊岐さんは、創造奔放派の慈明さんのもとで監院かんいんを勤めて、師匠にはとても不可能な実務面でのカバーをしてきたのです。

慈明さんは、南源、道悟、石霜と次々各道場を転住(任)してゆきましたが、楊岐さんは、そんな面倒な引っ越しの手続きなども堅実にこなして、仕事ぶりに遺漏がありませんでした。

しかし、そんな楊岐さんにも物足りない思いをしていることがありました。
こんな道場全体を束ねるような気の抜けない仕事に追われているということもあって、師匠の個人指導を受けるという場面がなかなか作れず、自分はこれでいいのだという「いのちの確信(悟り)」が、まだ得られていなかったのです。

そんないのちの『これだ!』という確信を求めて師匠に質問しても、「君は監院の仕事で忙しいんだから、しばらく去れ」と、冷たく突き放されてしまいます。

しかし、本当は師匠が冷たいのではないのです。監院という役割を勤めている時は、監院という仕事の「今」が『これだ!』なんです。それ以外のどこにも、『これだ!』なんてないのです。実は慈明さんは、楊岐にその事に気づいて欲しいわけなんです。

何度師匠に質問しても、そんなに冷たく突き放され、また、ある時は、「君は将来、沢山の弟子、孫弟子に恵まれて、末代までも楊岐の禅は広まってゆくようになるだろう。なのに、犬がエサをあさり回るようにヒロヒロと、悟りをいそいでどうするんだ」と言われるのです。

面白いですね。師の慈明は、ちゃんと楊岐の資質を見抜いていて、そんなに語ったわけですが、慈明さんの見通しは正しくて、楊岐の未来は、果たして慈明さんの言葉通りになりました。
 
慈明さんに、楊岐と黄龍おうりょうという弟子がいて、その二人の子孫が、それ以降の中国臨済宗の主流となりました。

黄龍の系統は、150年ほどで絶えたそうですが(栄西さんは黄龍派の禅を日本に伝えました)、楊岐さんの系統は末永く続き、さらに日本に伝えられた臨済禅も、ことごとく楊岐さんの法系で占められるようになったのです。白隠さんなんかも楊岐の子孫です。

慈明さんは、自分の器がそんなに大きくなく、徳もないので、この程度の小さな禅道場の師がふさわしいんだと自覚しておられたわけですが、慈明さんのもとに、楊岐と黄龍という優れた弟子が育ち、やがて一世を風靡することになったというのも面白いことですね。 

慈明さんは気まま奔放な人だったといいましたが、慈明さんには親しい女性がいたのです。禅の本には、「慈明婆じみょうば」なんて、ぼかした表現をしていますが、慈明さんが亡くなられたのは53歳の時ですから、ここで取り上げたストーリーの頃は30~40歳代のことであったはずで、その女性もお婆さんなんていう歳ではなかったはずです。禅僧の建前として、親しい女性がいたというのはまずいので、そのようにぼかして表現したのですね。
要するに、お互いが好きあっている関係の女性がいたわけですね。慈明さんは決してその関係を隠していなかったようなので、その点はカラッとしていいですね。
 
そんな女性が道場のすぐそばに引っ越してきて住みはじめたのです。慈明さんは暇が出来ると、いつの間にかその女性の家にふらっと出かけていってしまって、道場に居なくなるのです。

ある日、雨が降っていました。
慈明さんは例によって彼女の家に出かけようとしました。その途中の細道に、弟子の楊岐が待ち構えていて、慈明さんの胸ぐらを掴んで言います。

「さあ、師匠、今日こそはいのちの真理をズバリ説いて下さい。もし、説いて下さらなかったら、あなたを殴りますよ」

慈明さんは、「<そのこと>さえ分かったら、もうそれ以上何も求めるものはないんだよ」と答えました。

楊岐さんは、捨て身で質問したのです。自分のキャリアも道場での地位も、何もかも放り出して、師から見捨てられることさえ覚悟して問うているのです。清水の舞台から飛び降りる覚悟で質問しているのです。

そして、その、何もかもを放擲してひたすら問う姿勢こそが、その問いの解答、つまり「いのちの悟り」だったのです。

慈明さんが、「<そのこと>さえ分かったら、それ以上もう何も求めるものはないんだよ」と言ったその瞬間、楊岐はハッと<そのこと>に気がつきました。
そして、雨が降って泥道になっていたのですが、身を伏せて師を礼拝しました。

そして、立ち上がって師匠に問います。
狭路きょうろ(人一人が通れるような細道)で出会った時はどうなんですか」

これは、質問の形で自分が得た「いのちの悟り」は、このようなものなのですと説明しているのです。
 
歩いていると、前から人がやって来ました。狭い通路だから避けようがないのです。人生の一瞬、一瞬の出会いは、すべてそんな狭い道での出会いなんです。どんなに辛い出会いでも、不満な出会いでも、そこから顔をそむけることも、背を向けることも出来ないんです。そこから逃げ出せぬ出会いなら、それに全力でぶつかってゆく、関わってゆくしかないのです。それが『これだ!』(いのちの悟り・覚悟)なんです。私はそのことが分かりましたと楊岐は師に報告しているのです。

それに対して、師の慈明は、「オレは、行くところがあるんだ。ちょっとどいてくれ」と言って、サッサと彼女のところに行ってしまいました。

これは、なかなか味のある、気の利いた指導ですね。

要するに、楊岐の悟りにはまだ力みがあるのです。
新米の相撲の弟子ははじめに、とにかく真っ直ぐ全力で相手にぶつかってゆけと指導されます。それが基本なんですね。

しかし、いつまでもそれだけの相撲をしていたら大成は出来ませんね。とにかく、その時々の出会いに、全力で直面しぶつかってゆく覚悟さえ決まったら、面白いもので、その時に必要で適切な行動がとっさに取れるようになるし、必要な智慧も湧いてくるようになるのです。

道元さんはここのところを『現成公案げんじょうこうあん』という言葉で説明しておられます。
「現成」とは、「在出会った課題に、いのちの全体重をかけてり切ってゆく(ぶつかってゆく)」ということで、そんないのちの姿勢が定まれば「公」となり、「案」が生み出されてくるというのです。

「公」という漢字の「ム」は「囲い」を示し、「ハ」はその囲いを開くことで、上に説明した「現成」といういのちのあり方が出来るようになれば、自己制約の囲いが外れて、これまで自分はここまでの存在だと思いこんでいた自分の可能性の限界の囲いを突破した、予想外の能力が発揮出来るようになるというのです。
 
「案」という漢字の「木」は、モノを安定させるために木を組んで作った支持台のことで、「安」は、モノをそのモノにふさわしい位置に置いて安定させる意味なんだそうです。

ですから、「案」とは、様々なモノゴトを、それぞれ一番ふさわしい位置に配置して安定させて、それらの持っているそれぞれの特長が最高に発揮できるようにする行動やアイデアを意味する漢字なのです。

たとえば、「案内」とは、やって来た人を、その人に一番適切な部署に誘導してあげる行為のことですね。
「考案」とは、様々なエレメント(要素)を組み合わせて、それらの要素がそれぞれの特徴を発揮して全体として最高の機能が果たせるようなシステムを創り出すことですね。

さて、道元さんの<現成公案>の意味を要約すると、次のようになります。

人が、未来や過去にいのちをフラフラさせずに、今・ココにしっかり腰を据えて行動できるようになると(現成)、
おのずと個人性の限界の枠組みを突破して、いのちの全体性に復帰出来る(公)。
それによって、宇宙全体のモノゴトの安定のために、今・ココで自分に可能な最善・最適な行動(案)が自ずと採れるようになる。
以上が<現成公案>である。

文献には、師の慈明の、「オレは、行くところがあるんだ。ちょっとどいてくれ」で、楊岐さんは「現成」から「公案」の悟りへとステップ・アップ出来たとは書かれていませんが、そうであったことが、その後の楊岐さんの行動から明らかだと思います。

次の日、楊岐は正装して慈明の部屋に出かけ、改めて昨日の事の感謝を述べます。
すると、師の慈明は、「まだ、だめだ(未在みざい)!」と言います。
楊岐は、一言も述べず、そのまま仕事場に戻ってゆきます。
 
この楊岐の行動を見ても、楊岐の悟りはすでに「現成」から「公案」の域まで達していたことが分かります。

「未在」とは、当時の中国の俗語で、「まだ、だめだ」という意味なのですが、それは、「未だどこにも存在しない」という意味で捉えることもできますね。

つまり、「まだ、だめだ」という意味と、「君は悟ったという状態にも固着していないんだな」という意味も兼ね合わせて楊岐に問うているのです。もし、「君はまだだめだ」という意味に捉えてがっかりしたり、抗弁したりしたら、その人は、やはりまだだめなんですね。

もし、「君はどこにも固着しないで、今・ココ、今・ココにしっかりいのちの重心を据えながらも、どの今・ココにも固着してしまわないで流動してゆくという、いのち本来のあり方が出来ているね」と捉えることが出来たなら、楊岐は昨日の悟りさえすっかり忘れて、監院の仕事に帰って行けるでしょう。そして、楊岐の場合は後者だったので、師の慈明もきっと満足だったでしょう。

楊岐の立場から見るとこういう事なのです。
昨日、私はいのちの真理を悟ることが出来た。それは、師のお蔭なのだから、感謝の気持ちをしっかり形に表さなければならない。だから正装して師のもとに行き、礼拝して感謝の意を示したのです。

しかし、師から「よし」と許可されたり、褒められたりすることを願っていたわけではないのです。

ですから、師から「だめだ(未在)」と言われても、それはどうでもいいことなのです。

昨日の事は昨日の事なのですからね。今日は今日の仕事に全力投入です。そんな覚悟こそが「いのちの悟り」なんですからね。
 
後日のことです。朝食が終わると、いつもだと合図の鐘が鳴って、弟子達が法堂に集まり、師のお話し(「朝参ちょうさん」という)があるのですが、その日はいつまで経っても鐘が鳴らないのです。

不審に思った楊岐が、時の係りの僧になぜ鳴らさないのかと聞くと、「師がどこにも見当たらないので朝参を始められないのです」と言います。
 『ははーん、またか』と気づいた楊岐が、例の女性の家に行くと、案の定、師がそこにいて、女性と仲良く台所で炊事をしていたのです。

「師よ、もう朝参の時間ですよ、早く帰ってください」というと、師匠は、「もう、お前達を指導するのは飽き、飽きした。ここで何か気のきいた言葉を言ってみよ、言えたら帰ろう。もし言えなかったら、もう道場は解散だ。めいめい好き勝手に出て行ってくれ」と言いました。

楊岐はそれを聞いて、そこにあった編み笠を被って、さっさと出てゆくジェスチャーをしました。

師はとても喜んで、楊岐と一緒に道場に帰って朝参をしました。

ここでは、楊岐が得た「いのちの悟り」を見事に表現しています。
「私は、監院という役割を本腰を入れて遂行していますよ。しかし、その職に固着しているわけではないのです。師が解散とおっしゃるなら、私はそんな職はいつでも辞めて、裸一貫の自分に戻って、いつでもゼロから再出発してゆけるのですよ」と、そのいのちの自信をジェスチャーで示したわけです。

それからも、師は時々行方不明になり、なかなか朝参が出来ません。 それで、夕方になって師がコソッと女性の家から帰ってくるのを見つけると、直ちに鐘を鳴らさせて弟子達を集め、師に弟子たちのために話しをすることを要求しました。 

師の慈明は怒っていいます。「夜になって話(参)をするなんていう規則の道場はどこにもないじゃないか。なぜオレがお前達に話をしなければならんのか」
楊岐は言います。「これが我らが道場のルールなんですよ(文句ありますか)」 

素晴らしいですね。これが我らが生きる道なんですね。禅の伝統では朝食後に話をすることになっているかもしれないけれど、いろいろな事情で(主に慈明さんの事情ですけどね)、夜に参をすることが、この道場の現状では一番いいことなんだというのであれば、それがここでの我らのルールなんですよと言っているのです。

そして、この夜に参をすることが「晩参ばんさん」と呼ばれるようになり、楊岐の禅が広まるにつれて、「晩参」はすべての禅道場で行われる伝統となったということです。

そんな楊岐さんにもやがて時が来て、いよいよ独立します。師がこのようにわがままで付き合いが悪い人で、人脈なんて持たない人だったので、経済状態のいい寺を紹介してもらって入り、立派な道場を開くなんていうことは出来ませんでした。

入った寺は荒れ寺で、いたるところで雨漏りはするし、隙間風はどんどん吹き込むし、雪が降ると坐禅堂の床が雪で真っ白になり、坐禅している楊岐や弟子達の衣にも雪が積もるというありさまでした。

これではたまらない、皆で手分けして勧進(寺社の建立、修繕のために金品を募ること)して必要な費用を集めますから修繕しましょうと、弟子たちが相談して願い出ました。

楊岐は言います。「君たちも私も、まだ自分の生きてゆく道も定まらずフラフラしている状態だ。そんなまま、私のようにもう五十歳に届いてしまった者もいる。それなのに、住まいの環境を整えることのために費やす時が惜しいとは思わないのか。

形あるものはどんなに立派なものであっても、やがて消えてゆく。
しかし、私たちは今、このような不十分な環境の中でも、それにもめげずに、助け合い、励まし合いながら、ひたむきな修行の時を持てている。

そんな純粋で充実した、宝石のような一時が持てていることは、何と有難く、貴いことであろうか。

そのように、ひたむきな行が実践できている今・ココにこそ本当の「永遠」があり、遠い未来へとつながってゆくものなのだよ。

私たちがこの寺をひたすらの修行に使い切って、やがてついに朽ち果てたとしても、この寺は、「私は自分の使命を十二分に果たすことが出来ました」と天に帰って、胸を張って報告するだろう」と言って、修理することを許可しませんでした。

そして、次の日、弟子達への話の中で、次のような詩を創って示されたいうことです。 


楊岐はじめて住すれば屋壁疎おくへきそなり
(この寺に住んでみれば、屋根は雨漏り、壁は隙間だらけだった)

満床まんしょうことごとさっす雪の珍珠ちんじゅ
(雪が降れば、床が一面の白の絨毯で、キラキラ宝石のように輝いている)

うなじ縮却しゅっきゃくして、あん嗟嘘さこ
(寒さに首をすくめて、ふるえながらため息をつく)

ひるがえっておも古人こじん樹下じゅげきょ
(そして嘆きの中で思い返す。私たちと同じように道を求めた先輩方は、私達のような住居すらなく、林の中に住み、寒空の下でふるえながら坐禅を組んでおられたのだろうなと)

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