白隠禅師坐禅和讃講義-その1-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

江戸時代の禅僧、白隠禅師に『坐禅和讃』という作品があり、これを臨済宗では現在でもお経のように仏前で唱えています。

その内容は、法華経の大乗精神そのもので、白隠禅師は法華経によって本当の悟りを得られた方なので当然のことなのですが、唱えていて実に爽快で、元気が出る文章ですし、法華経のエッセンスをうまく要約した内容ともなっているので、皆さんと一緒に勉強しておこうと思います。

白隠禅師はくいんぜんじ 坐禅和讃 ざぜんわさん 

『和讃』は、『和語(日本語)による賛嘆の詩』です。『坐禅』という行の素晴らしさ(功徳)を、当時の一握りのインテリにしか理解出来なかった漢文によってではなく、教養のない庶民大衆にも、読むとすぐ分かり、文字が読めない人でも、聞くとすぐ理解出来るようにと、和語の歌の形を採用して示されたわけです。

衆生本来佛しゅじょうほんらいほとけなり みずこほりごとくにて
みずはなれてこほりなく 衆生しゅじょうほかほとけなし

『衆生』とは『すべての生けるものたち』という意味です。AさんもB君も、ドジョウさんもカエルさんも本来仏様なんだよ、というのです。

なぜそうなのかというと、いのちは本来一つしかないからです。

その一つきりしかないいのちが、色んな形で現れて、その個々別々の表現を楽しみ、目下夢中で遊んでいるといったところなのです。

『仏』とは、それらの個々のいのちの本質、本源である『ひとついのち』のことを言います。

その『ひとついのち(仏)』のことを、ここではさらに『水』に喩えておられます。

なぜ、『仏』を『水』で喩えるのかというと、『水』はどこからどこまでと区切れませんね。どこまでもぶっ通しでつながっています。そういうところが、宇宙いっぱいの広がりを持つ、生き通し(透し)の『ひとついのち(仏)』の喩えとしてぴったりなのです。

また、『水』は柔軟ですね。必要(器)に応じて、どんな形でも取れますし、どこにも固まりがなくて、すっかり『ほどけ(仏)』ています。そういう、ひとついのちを悟り、体現した仏様の生きざまの柔軟性を喩えるのに『水』がぴったりです。

そしてAさんやB君やゾウさんやカバさんなどの個々のいのちのことを『氷』で喩えておられます。

『氷』で喩えられる個々のいのちも本来は『水』がこごって(氷の語源はこごりです)出来ているのですから、その本質はまじりっけなしに『水』(つまり仏)オンリーなのです。

しかし、だだっ広い、どこまでも均質な『水』だけというのでは、あまりにも単調で面白くないというわけで、水の分子の振動数をズッと下げていって、いろんな形の『氷(個々のいのち)』を色々と工夫して作り出したというわけです。

ところが、作り出されたほうの個々のいのちは、いつの間にか自分達は本来『水(仏)』であったということを忘れてしまって、形や大きさの違う『氷』どうし、ガツン、ガツンぶつかってはトラブッたり、溶けるということは、もとの故郷である『水』に戻るという、なつかしい楽しいことなのに、氷が溶けてしまうと、自分といういのちが亡くなってしまうかのように誤解して、必死でいのちを冷たくし、コチコチに固くして、自分という存在が無くならないようにと、ゴチンゴチンと邪魔な他の存在を押しのけようと努めるようになったのです。

衆生近しゅじょうちかきをらずして とほもとむるはかなさよ
たとへばみずなかかつさけぶがごとくなり

とはいっても、やっぱり自分だけが生きればいい、幸せであればいいという、冷たい人生は味気ないわけです。

それは、遠い遠い昔の、ひとついのちの故郷(エデンの園)の記憶が心の奥底にあって、昔は自分も人も世界も、みんな暖かい、一体の『水』であって、ゴツンゴツンぶつかる事なんてなかった。みんな柔らかく混じりあって、どこからが自分で、どこからが他人という境もなくて、固まりがないから、思うままにサラサラ流れて遊んでいた、と本能的に知っているからなのです。

そこで、『仏(ほどけ)』を求めるようになる。仏を目指して修行の旅に出発するということになるのです。

はじめは、目標である『仏』ははるかかなたにあるように思います。

でも、本当はあなた自身が仏なのですね。

それは例えば、水の中にいて(あなた自身が水なのに)、『水が欲しい』と叫ぶようなものなんだとおっしゃっているのです。青い鳥はあなた自身(あなたがあなたといういのちに落ち着くこと)なのですが・・・。

長者ちょうじゃいへとなりて 貧里ひんりまよふにことならず

これは、法華経の第四章信解品にあったたとえ話でしたね。

あなたは本来宇宙全体の富と知恵と能力をことごとく我が物としている存在(長者)なんだけれども(宇宙全体すべてが本当は自分なんだから)、そのことをすっかり忘れてしまって、地面に棒切れでクルリと小さなサークルを描いて、その内側だけが自分だと思い込んでしまったので(自分で自分に催眠術をかけてしまった)、そのちっぽけな囲いの内側の能力、富、知恵だけしか使用出来なくなってしまったのでした。そうして、貧しくて何事も思い通りいかない人生を生きねばならなくなったわけです(貧里に迷う)。

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