家康公のこと

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

大阪府の採用試験を受けて合格し、公立高校の教員に採用された時(25歳の時?)のことです(3年で辞めてしまいましたが…)。
新任研修があって、新採者がどんな先生になりたいか、一人ずつスピーチするということになりました。

僕は、「先生、昼寝でもしていて下さい。僕たちが自分たちでやっておきますから」と言ってもらえるような先生になりたいです」と言いました。すると、その場の皆さんがドッと笑ったんですね。

僕は、何で笑われたのか不思議でした。先生は裏方さんで、主役はあくまで生徒なのだから、生徒たちが自主的にドンドン学習し、また自分で判断して行動してゆけるようになれば、教師としてはそれが最高なわけで、教師が目立つようではいけないはずですね。

生徒を強引に引っ張ってゆくというスタイルの先生は、カリスマ先生などと賞賛されて保護者や一部の生徒には絶大の支持があったりしますが、そのカゲでたくさんの泣いている生徒たちがいるのを見てきました。

そんな強引な指導法は、1,2年生の間はとても成績が伸びて、この調子では東大や医学部に大勢合格するだろうと期待していても、3年になって、いよいよ受験勉強の大詰めになると、急に成績が伸びなくなるものです。
 
それに、そんな先生が指導した学年は、「指示待ち」で育つので、浪人になってもちっとも成績が伸びなかったり、大学に入っても留年生が多く出たりするものです。自分で自分なりの勉強法を工夫して作り上げてゆくという能力が育っていないのです。

僕の授業を参観させてほしいと若い先生がよく来られたものですが、皆さん首をひねって帰ってゆかれます。取り立てて何も特別なことはしていない、普通の授業だからです。でも他校と比較しても成績はずいぶんいいのです。

取り立てて特徴のある指導はしていませんが、生徒を観察するアンテナだけはしっかり張っています。そして、生徒がキラリと輝いた瞬間を決して見逃しにはしません。その瞬間に必ずその生徒に声を掛けて賞賛します。それだけで、その生徒は自分のいいところに気づいて自信を持ち、自分の力で伸び始めます。本当に「声かけ(肥かけ)」だけで、植物もそうであるように、誰でもイノチの内側に成長しようというイノチの本能が宿っているのです。

僕は他の精神世界の先生方に比べて、たいした活躍はしていないのは確かです。「…これらの先生方に比べて立花大敬さんは地味めで、知名度もありませんが…」などという評が上がっていたりします。また、「大敬先生は、他の先生方に比べると、いい意味でも悪い意味でも『ゆるい』です」という講評も載っていました。

人格の輪郭がハッキリして、パワフルな、カリスマの先生方に比べて、なんとなくボヤッとして頼りないように見えるのでしょうね。

でも、他の先生方に比べて僕が優れていると思うところがただひとつだけあります。
それは、僕には素晴らしい弟子が多いし、しっかり育っているという点です。それこそが僕の宝物なのです。

しかし、そんな素晴らしい宝石を抱えながら(僕にはその輝きが見えるのですが)、まだそのキラリと輝くものを見いだせていない弟子がたくさんいます。そんな弟子にジャストタイミングが来て賞賛の声かけが出来る瞬間を僕は忍耐強く、ジッと待ち続けています。獲物を狙う豹のように…。

でも、僕はさらにさらに欲張りです。もっともっと素晴らしい弟子がたくさん欲しいです。まだまだ人材が足りません。
僕たちの仲間の「志」は「国生み」です。<ひとり・ひとつの理>という指針のもとに平等で、平和で、豊かな理想国家(世界)を建設し始めるというのが、僕たちの使命です。

最近なぜか「先生は、徳川家康公にご縁があるようですよ」と言われることが増えてきて、僕にはそういう前世に関する霊能力はほとんど無いので『本当かな?』と思うばかりなんですが、いろんな方にそう指摘されます。

僕は大阪生まれ、大阪育ち、大阪城の大手門の前にある高校が母校で、太閤さんは好きなんですが、家康さんは「何だかなあ」といったところでした。

しかし、あまりにいろんな方から指摘されるので、宮城谷先生の『風は山河より』(新潮文庫)などを読んで、少しは尾張や三河の歴史なども知るようになってきました。家康公の幼年期は大変な逆境(長い人質生活)だったのですね。その経験を見事に生かし切った生涯を送られたのです。

織田信長公も豊臣秀吉公も徳川家康公もこの地方のご出身というのもすごいことですね。
そして、この方々は、次々世に出てバトンタッチしながら、日本国の安定、繁栄のために尽くされたのだと思います。信長さんが「壊して」、秀吉さんが「結んで」、そして家康さんが「建てた」という分業だったようですね。
この役割分業を家康公はよく自覚されていたようで、日光東照宮では、家康公にならんで信長公、秀吉公も合祀されているそうです。

この三人のうちで、家康公が一番地味で魅力に薄いように見えます。そして、一番慎重で、一番目立たず、一番遅れて世に出られました。
そんなところが大敬と似ているのかも知れません。「同じ年にお生まれになった三人(誰を指すか分かりますね)のうちで一番地味めで、あまり世に知られていない立花大敬さんは…」などと、僕はよく評されます。

まあ、正直なところ、世に出ようとはずっと思っていなかったし、お金を儲けたいとも、地位や名誉を得たいとも思ったことがなくて、九州の片隅で黙々と二十数年間禅の会を続け、一銭のお金ももらわずに毎月「しあわせ通信」を書き続けてきたというだけなのです。そういう地味さと忍耐強さが家康公と似ているのかも知れません。

家康公は関ヶ原出陣にあたって、ウイリアム・アダムズ(三浦按針)に五万両という大金を与えておられるそうです。軍資金が不足で、これでは豊臣方に勝てないと予想される中での五万両を割くというのは大変な決断だったでしょう。
 
関ヶ原の戦いの後、ある人が「なぜウイリアム・アダムズに五万両もの大金を与えられたのですか」と質問したところ家康公は、「今度の戦いはとても勝ち目はないと思った。私が死んでも、日本の国は残る。この国に私が残すべきお礼は何であろうかと考えた。三浦按針に大金を与える。それで日本に住んでもらう。そこでイギリスの優れた造船の技術や航海術の学問を残してもらう。これは海国日本の宝になる。こう思ったから大金を与えた。幸い勝ったから形見にならなかっただけだ」と答えられたのだそうです。

家康公はそういう日本国の将来の安定・繁栄だけを願う「無私」の方であったから、神仏の援助を得られて、結局日本国を統治する立場になられたのでしょう。

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