漸源の場合-永平知事清規を読む(5)-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信187号」の内容を再編集して掲載させていただいています。

前回の記事はこちら

前回は、危うく師匠を殴ろうとした刹那に悟ることが出来た楊岐の話でしたが、今回の漸源ぜんげんの場合は、本当に師匠を殴ってしまいました。

この話は、この知事清規の記述より、碧巌録へきがんろく(第55則)の方が詳しく書かれているので、ここでは碧巌の方の記事を紹介して解説しておきたいと思います。 

漸源は師の道吾どうごのもとで典座てんぞ(食事係)を勤めていました。
ある日、檀家の家の弔いに師と二人で出かけました。

漸源はひつぎをトントンとって師に問います。「生ですか、死ですか(この棺の中の人は生きているのですか、死んでいるのですか)」
師の道吾は言います。「生とも言わない、死とも言わない」
漸源はさらに問います。「どうして言って下さらないのです」
師は答えます。「言わない、言わない」

道場への帰り道で、漸源は再び師に問います。「和尚、どうかはぐらかさないではっきり答えて下さい。死なのですか、生なのですか。答えて下さらなければ、あなたを打ちますよ」

師は言いました。「打ちたければ打てばいい。どうしても言わない」
漸源はとうとう師匠を殴ってしまいました。

師匠は言います。「お前はこのまま道場に帰ったら、兄弟子達がこのことに気づいてお前を許さないだろう。このまま道場から出よ」

昔の寺は治外法権だったのです。それに禅寺なんかはかなり荒っぽい連中が集まっていたようです。道場の規律を犯した弟子がいれば、寄ってたかって簀巻すまきにして川に放り込むといったようなことが行われていたそうです。ですから、師の道吾は漸源のことを心配してそのまま逃がしてくれたのです。

それから、漸源は各地の道場を経巡っている間に、師の道吾が亡くなったことを知ります。そういう事もあって、漸源は石霜せきそうの道場にやってきます。 

石霜は道吾の弟子だった人で(ですから漸源の兄弟子ということになりますね)、道吾に許されて独立し、自身の道場を開いて後進を指導していました。
 
漸源は石霜に、師の道吾との経緯いきさつを語り、再び質問しました。「生なんですか、死なんですか」
石霜「生とも言わない、死とも言わない」
漸源「どうして言って下さらないのですか」
石霜「言わない、言わない」
漸源はたちまち「いのちの真理」を悟ることが出来ました。

ここでは、「いのち」を「サイコロ」に例えて説明してみましょう。

その「いのちのサイコロ」はじっと静止しているわけではなく、どこまでもコロコロ転がって進んで行きつつあるサイコロなのです。

そんな転進しつつあるサイコロには、「1」から「6」までの模様が描かれています。
そして、転がり続けるサイコロなので、ある時は1の目が出たり、またある時は6の目が現われたりするのです。一つの目が固定してしまうということはありません。

その「1の目」が出た場合が、例えば「生誕」であり、「6の目」が出た場合が、例えば「死亡」です。
残った「2~5の目」が、地上に生きている間に体験する様々な出来事であり、たとえば「嬉しい目に会う」、「辛い目に会う」などです。

でも、それらはすべては、その時、「そんな『目』に会っている」と言うだけであって、どの「目」も、決していのちの「本体」ではないです。

ですから、死や生という目も、いのちが体験する色んな目のうちの一つなのであって、その目が出たことによって、いのちが増えた(現われた)ということは無いし、いのちが減った(無くなった)ということもないのです。どんな目が出ていても、いのちの本体(立方体)はちっとも変化しません。

禅を学んでいる人は(それが本当の学人ならば)、何を参求しているのかというと、いのちとは本当はどういうものなんだろうか、という疑問を追求しているのです。

いのちの本体はサイコロ本体なのであって、そのサイコロに描かれた模様ではないのだから、『目』にばかり目を付けて振り回されてしまってはいけないよ。それでは、いのちの本質にたどり着けないよ、と言いたくて、道吾さんは「生とも言わない、死とも言わない」と答えたわけです。

しかし、ここで間違ってしまう人もいます。

いのちの本体は立方体状の無地の白いサイコロで、その表面に描かれた模様(人生で出会う様々な経験の喩え)は、いのちの本体を忘れさせ、そこからさ迷い出させる邪魔者なんだ、と考えてしまうのです。

だから、そんな模様に振り回されないようにしなければならない。
そのためには、出来るだけ世間との接触を減らさねばならない。瞑想の時間を増やさねばならない、と考えるのです。

こんな厭世的な、誤った思想を持っていると、現世における仕事や人間関係などに真剣に、誠実に取り組んでゆこうという気になれません。だから、開放的で生きがいのある伸びやかな人生を送れなくなります。

サイコロの表面に描かれた模様(現世における色々な経験)について、もう一度考察してみましょう。

もし、サイコロの本体がなければ、1から6の模様も描くことはできません。模様が現われているのは、ですから、本体があるゆえです。
「喜怒哀楽さまざまな人生模様」があるのは、いのちの本体がある証拠なのです。

小乗仏教や真我追求派は、模様を消して無地のサイコロに戻ろうとしますが、模様を通していのちの本体と一体化してゆこうとするのが大乗仏教です。

たとえば、素晴らしい芸術作品である絵画を鑑賞しているとします。

真我追求派は、絵の具をこそぎ落として無地の白いキャンバスを見ようとするか、あるいは、描かれた色彩はそのままにしながら、色彩を無視して、その奥の白いキャンバスだけを見ようと努めるのです。
 
大乗の仲間は、その色彩模様にこそ、永遠のいのちの本体が宿っていると見るし、私たちもまた、限られた絵の具と数本の絵筆と才能と、有限の時間の中で、いのちの永遠性を表現出来るし、だからこそ人生は面白いんだとするのです。

さて、では漸源さんは、石霜との対話で、小乗(絵の具をはがしてキャンバスを見る)や空観の悟り(絵の具のままキャンバスを見る)を得たのか、あるいは大乗の悟り(今・ココの一瞬に永遠と遍在を表現する)を得たのでしょうか。それは、この公案の後半で明らかになります。

(後半)
ある日、石霜が法堂はっとうで弟子達に講義をしていました。
すると、漸源が鍬子くわを担いで入ってきます。
そして、東より西に歩き、西より東に歩きます。

石霜は問います。「何をしているのか」
漸源「先師(亡くなられた師匠のこと、道悟禅師)の霊骨(いのちのバックボーン、つまり本体を霊骨にたとえている)を捜しているのです」

石霜「(いのちの本体は)洪波こうは浩渺こうびょう白浪はくろう滔天とうてんじゃないか。先師の霊骨なんてどこにも見つかるもんか(いのちの本体と言ったって、コロッとした固まりがどこかにあるわけではないのです。模様こそ除けば、中から純白の立方体の真我が現われるんだと思っているのは誤りです)」

漸源は言います。「だからこそ、一鍬、一鍬に全力を尽くし甲斐があるというものです」

先ほどは、いのちの本体を転進し続けるサイコロに例えましたが、石霜さんは、海のイメージで例えています。サイコロの例えより、ダイナミックで、いのちの本質の真に迫っていて素晴らしいと思います。

ただし、海のイメージでは、いのちの意志の方向性(サイコロはどこに向かって転進しているのか)が示されていないので、その点はサイコロの例えのほうが勝れていますね。

台風の際の海をイメージして下さい。ゴーゴーと激しい風が吹き荒れ、轟き湧き立っている海原です。はるか遠くまで、無数の大白波が続いていて、その波の高さたるや天に届くほどなのです。

この「波」が、サイコロの「目」に当るもので、「目」は次々転じて変化してゆくように、「波」も次々旧い波が消滅しては、次々新しい波が誕生して、決して固まった波というものはありません。

しかし、どんな波が生じても、また消滅しても、「水」という「いのちの本体」は増しも減りもしていませんね。また、「水」がなければ、どんな波も存在出来ませんね。

石霜さんの「洪波こうは浩渺こうびょう白浪はくろう滔天とうてん」には、いのちの本体のこのような激しい力動性(人ごとではない。あなたのいのちの本性はソレなんですよ)がよく表現されていて、そんないのちの本体は、生や死なんていう観念的で、静的な言葉ではとても表現出来ないものなんです。

残るものなんて何もないのです。次々旧い波を消滅させながら、新しい波を生じさせてゆく。なぜいのちはそんな波を次々生起消滅させてゆくのか。それは、そんな様々な人生の波浪に揉まれながら、いのちはドンドン成長してゆけるからです。

私たちが様々な人生の荒波を体験してゆくのも、実は激しく進化向上を求めて止まない、いのちの本質(根本意志)が引き寄せているのです。
進化向上を目指す根本意志がはっきり現われている人ほど、自ら多難な人生の荒波を引き寄せるのです。

そんな「洪波浩渺、白浪滔天」である、いのちの本体の中に、先師の霊骨なんていう固まりはどこにも残っているはずがないのです。

それに対して、漸源さんは、「だからこそ私は、一鍬、一鍬に全力を尽くすのです」と言いました。これは素晴らしい「大乗のいのちの悟り」の表明です。

鍬で表面の土(模様)を剥がして、中から先師の霊骨(真っ白な立方体のいのちの本体)を掘り起こそうというのではないのです。

一鍬、一鍬、本腰を入れて、体中の筋肉を総動員して、汗をタラタラ流しながら鍬を振るう。そんな「今・ココ」の出会いとの誠心誠意な関わり合いにこそ「いのちの本体」があるのです。

人生の一瞬、一瞬の波を愛しんで、その一瞬の波がキラリ永遠普遍の光を放つように、一鍬、一鍬に力を尽くします。そうすれば、その一鍬ごとに、先師の霊骨が厳然と存在して不滅なのです。

それが、師匠の言葉の真意が分からず暴力を振るってしまった。その罪に対する真の懺悔であり、供養なのですよと、漸源は言いたかったのですね。

タイトルとURLをコピーしました