性格は「時代おくれ」

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信178号」の内容を再編集して掲載しています。

今月の禅の会(平成26年12月7日)では、『アドラー心理学トーキングセミナー 性格はいつでも変えられる』野田俊作(アニマ2001)という本をテキストにしてお話しさせて頂きました。

野田さんは昭和23年33月10日生まれ。大阪大学医学部卒で、精神科医。シカゴのアドラー研究所でアドラー心理学を学ばれた方です(日本アドラー心理学会初代会長)。

私と大学が同窓で、おそらく1年先輩なのだと思います。
ですから、野田さんも私と同じように、学生時代は大学紛争の渦中にあったわけですね。

この本の中にも、そんな話が載っていて、野田さんは、敵味方に分かれて争っている学生たちを見て、『こんなことをやっていても、そんなやり方(政治)では決していい世界を創ることは出来ない。やはり、人間が変わらなければ世界は変わらないのだから、ボクは人間の心を研究しようと心理学を志した』と語っておられました。
私もやはり同じように考えて、私の場合は禅に向かうことになったわけですね。

野田さんはアドラー心理学の研究・実践を積み重ねて、ついに心の癒しには瞑想が欠かせないという結論にたどり着き、癒やしに瞑想を活用するようになられたのですが、私の場合は坐禅から入って、「心」の重要性にたどり着いて、「心による想いの実現法」などを皆さんと一緒に研究するようになりました。
というわけで、野田さんと私は似たもの同志で、この本の内容にも共感できる部分が多いし、なるほどと教えられるところもたくさんありました。

『性格はいつでも変えられる』というのが、この本のサブタイトルとなっていますね、そこで、まず「性格」とは何なのか、漢字の原義から見えてくるものを探ってみましょう。

まず、性格の「性」について、私が使っている漢和辞典には、「ヘンの心(りっしんべん)と、ツクリの生で、人に生まれながら備わっている心を表す」とありました。また、「仏教では、万物の変わらない(変えられない)本質を表す」とありました。

そして、「格」については、「(行こうとして止められる)コツンとつかえる固い角やワク、モノゴトを制限するきまり、法則」とありました。

つまり、「性格」について、昔の人は、
① 自分はこの道を進もうとしても、その行く手を阻んでストップさせる(生まれつきの)心の傾向性。
② 進む道を強制して自由な選択をさせない(生まれつきの)心の傾向性。

と捉えていたことが分かります。

このことから分かるように、昔の人はずいぶん制限・制約の多い「固くて、重い」世界に生きていたのですね。

たとえば、「男性・女性」だって、昔はこれは「性」のもの、つまり生まれつきのものであり、一生涯変わらない、変えてはいけないものと考えられており、その決まりに違反することは許されなかったのです。

しかし、現在では、その考えは間違っており、男性でも心は女性ということもあれば、女性だけれど、心は男性であるということもあるのだと理解許容されるようになってきましたね。

つまり、私たちが現在住んでいる世界は、ありがたいことには、昔の人が暮らした世界に比べたら、ずいぶん「柔らかくて、軽い」世界になってきつつあるのです。
 
ところが、そんな現代に生きている人でさえ、「性格はなかなか変えられない」といいます。それに対して、野田さんは「性格は変えられる」と言われるのです。

「性格」は放っとけば、ウカウカしているうちに、どんどん変わっていってしまうものなのだと言われます。

それはそうですね。世界は一瞬、一瞬で立ち消え、立ち上がり、してゆくものなのですから、継続するものなんて実は何一つないのです。ですから、「性格」なんていう固定したものもどこにもないはずなんです。

それでも、「性格」が各人に固有の変わらないもののように現れているのはいったいなぜなんでしょう。

それは、人は自分の「性格」を変えたくないからなのだと言われます。

変えたくないから、そもそも「幻想にすぎない囲いや壁」をあたかもあるかのように構築して生活しているとされるのです。

その幻想は、放っておけば崩れ去ってしまうもので、それを維持させるのは並大抵の努力ではありません。自身が持っている生命エネルギーのかなり大きな部分を割いて、その幻想の囲いを維持するために使っているのです。

そんなつまらないことのために使われるエネルギーが解放されて、もっとポジティブな目的に使われたら、人はもっと速く、もっと大きく成長できるはずなんです。

では、人はなぜ「性格」を固定させて、自らワザワザ不自由な生き方をしているのでしょうか。

それは、その方が安心に生きられるというメリットがあるからだとされます。

一つには、この「性格」で生きていれば、過去もこの「性格」で生きてきたので、これからの自分の人生の道行きも、だいたいの見通しが立つという安心感があるのです。ですから、不満足ながらもとりあえず安心を取ろうというわけです。

二つ目は、この「性格」で生きることによって、自分の周りに作られた「世界」(これも実は自分が生み出した幻想の世界像)との間に一種の安定状態が形成されているので、その安定を壊したくないのです。

三つ目は、この「性格」で、ずっと生きてきたので、こういうときはこう反応すればいいんだという行動パターンをたくさん学習、蓄積してきたので、その投資を無駄にして、また一からスタートするという決断が、怖くてできないのです。

野田さんは、こんなたとえで説明しておられました。

あるお店を経営している人がいるとします。
その商売は時代遅れになっていて、その店も年々売り上げを下げてきています。このままではやがて立ち行かなくなるかもしれないなあと思って、店主は不安を抱いています。
いっそのこと、思い切って店を閉めて、新しい商売を始めるか、就職しようかとも思うのですが、その踏ん切りがなかなかつかないでグズグズしています。
なぜ、踏ん切りがつかないのかというと、もう長らくこの商売をやってきたので、こういうときはこう行動すればいい、こんな時はこうするというノウハウをたくさん積み上げてきたし、経営上の人脈も築いてきたので、その貴重な経験群をご破算にして、またゼロから始めることにはためらいを感じるのです。

「性格」とは、こういうもので、必ず時代遅れのものなのです。なぜなら、性格とは過去の経験や学習を通して形成されたものなのですから、もうすでに、過去のもの、時代遅れのものなのです。そんなものに頼って、これからの未来の進路を決めて生きてゆこう、少しぐらい不自由で、ジリ貧の人生を生きることになっても我慢しようというのは、とても残念なことですね。

野田さんはグループセラピーをやっておられるのですが、ある会で、歩き回って、合図があった時、目の前にいた人に「私のことを好きになってください」と告げるというゲームをしたのです。

その時に、どうしてもそう言えずに壁に向かって立ち、途方にくれている若い男性がいたそうです。
なぜか、そういう「性格」が形成されていて、そう言おうとしたらブレーキがかかってしまうのですね。

その時に、その男性に呼吸法を中心とした瞑想をしてもらったのだそうです。

すると、すらっと「私のことを好きになってください」と言えるようになったのだそうです。面白いですね。

このように、アドラー心理学では、そうなった過去の原因については、取り立てて詮索はしないそうです。原因がわかっても、それでその人が変わることが出来るとは限らないのですからね。

坐禅でも、瞑想でもやると、ちょっと頭がアホになるんですね。すると、中途半端にカシコイ時にはブレーキがかかっていた行動も、つい、フラッとやってしまうことになります。
そういう経験を重ねると、次第に、『アッ、行く手を阻む壁なんて本当はなかったんだ』と自覚できるようになるので、原因の追究(精神分析)をしなくても、もうその方向にあったはずの囲いは消滅してしまうことになります。

私なんかも、もともと気が小さくて、臆病な性格なんですが、いざという時になると、そんな小さな囲いが一気に消滅して、開き直って大胆に言動できるようになります。
そして、そんな、ついやってしまった行動が、実はとても大切な意義をもったもので、我が人生の重要なターニングポイントになっていたんだなあと後で気がつくのです。

坐禅を長年続けてきたということはそういうことなんで、いざとなれば、アホになって、思い切った行動がとっさにとれるようになります。 
そして、そのとっさに取った行動が、深い智慧をこめた極めて有効な一石を投じたものとなっていたのだ(これを般若の智慧といいます)と気づきます。

そういうことが分かってくると、つまり、いざとなれば、いつでも、どこでも、「性格」という囲いを取っ払って、有効に行動出来るんだ、と分かってくると、日ごろは、もとのままの臆病で、ビクビク、オロオロしている大敬さんのままでいいんだということも、さらに分かってきました。
 
野田先生は、性格を変える方法を三つ挙げておられます。

(1)次に何が起こるか分からないということを引き受ける覚悟さえ持てれば、性格は変わる。

私の場合は、私がどう振舞うべきか考えるのは「神様」、大敬をどう動かすのか計画するのも「神様」、大敬の世界を構成・配置するのも「神様」なので、「神様」の御心のままに、お任せで動くだけなので、そういう意味では、この(1)の条件を満たしているようですね。

(2)「考え」をやめること。

人は、苦手なこと、どうしてもやれないことが出てくると、それについて「考え」ます。しかしそれは、やれない自分が「考え」ているわけだから、その「考え」の延長上に解決は決してないのです。

また、「考え」というのは、要するに、「出来ない言い訳さがし」なのです。

野田先生の言葉、「何かをすることに抵抗を感じたときは、ただひとつしなければならないことは、そのことをすること。一番してはいけないことは、なぜ抵抗を感じるのか分析をはじめること」

坐禅をすると、「アホ」になれるので、スッとやれてしまうものです。出来ないことにこだわって、それを直そうと努力すればするほど出来なくなってしまいます。

誰にでも、不得意なこと、やれないことがあって、また、そんな人が、他の人にはとてもできないようなすごい得意技を持っていたりします。
そういう、各人それぞれの「いのちのクセ」があって、それが面白いし、それでOKなんです。

先ほどの、「私のことを好きになってください」と、どうしても言えないという若い男性だって、かわいいじゃないですか。なんだか涙がでそうなほど、今の私には愛しく感じられてなりません。

野田先生はお医者さんで、カウンセラーなので、どうしても患者さんを治してあげなくてはならない立場なんですね。

でも、私はそうではないので、そんな制限があったり、制約の壁があっても、それと対決しないで下さいね。そういう自分であるということを認め、許し、愛して下さいねと皆さんに訴えたいのです。

その上で、坐禅という実践をして下されば、必要な時に、必要な行動が自然と取れるようになりますよ。それでいいでしょう。なにも達人や超人になろうとしなくてもいいですよね、と言いたいのです。

もとのまんまで、クセのまんまで、やれないことがあったり、やれることがあったりするまんまでOK、それが人間の愛嬌というもので、いくら達人であっても、苦手の一つや二つ、ちゃんと持って、人をホッとさせるような人物でなくちゃあと思います。

覚えておられますか。

文殊菩薩という方は、七代の仏様の先生であったという位、偉い方なのですが、ある若い女性を、どんなに智慧の限りを尽くしても目覚めさせることが出来なかったのに、底辺世界の住人である罔明もうみょうという人がいとも簡単にその女性の目を覚ますことができたというのです。
それはどうしてなのか、という公案がありましたね(無門関第42則)。

文殊さんにも出来ないことがあり、罔明さんにも出来ることがあるのですね。なぜという原因の詮索はいらないのです。

出来るものは出来るし、出来ないものは出来ないだけのことなんですね。それがこの公案の解答で、それでOKなんです。

(3)坐禅(瞑想)をする。

野田先生は、瞑想をすれば、自分や他者や世界を、そのまま受容できるようになると語っておられます。その通りですね。
ありのままの自分と他者と世界を受け入れ、許し、愛せるようになると、ありのままの最高の自分を発揮して行動できるようになってくるのです。

野田さんは、アドラー心理学の究極の目的は、人の中に「共同体感覚」を育てることなんだとされています。この「共同体感覚」というのが面白いのです。

野田さんは、この「共同体感覚」には、三つの感覚から構成されていると書いておられます。

(1)「私は私のことが好きだ」という感覚(自己受容)
(2)「人々は信頼できる」という感覚(他者への基本的信頼感) 
(3)「私は役に立てる人間だ」という感覚(貢献感)

これは、まさしく、「ひとついのちの自覚」が生じた時の感じと同じです。

「ひとついのちの自覚」が生じると、自分のことが好きで好きでたまらなくなります。

なぜなら、全体生命(小さくは人類の魂、大きくは大宇宙の神)が、その進化のためにどうしてもあなたが必要だと思って、そして、「あなた」を地上に生み出しました。

その「あなた」は、あなたの全体で、いいところだけが神さまの創造というわけではありません。神様はあなたの全体をそっくりそのまま、認め、愛して下さって、人生の歩みをサポートして下さっているのです。「ひとついのちの自覚」が生じると、自ずとそういう、宇宙全体に裏打ちされた自分なのだという、自己肯定感がいのちの奥底から湧きだしてきます。

また、自分だけではなく、Aさんも、B君も、イヌ君も、ネコさんも、みんな神様が、どうしても必要だと生み出された存在であるということがわかってきます。

そして、私は神様の全体(ひとり子)であるけれど、それぞれの個々のいのちたちも、それぞれ神様のひとり子であり、私といのちを共有する兄弟姉妹、分身であると気づきます。それが、野田先生がおっしゃる
(2)の他者への基本的信頼感なのです。

どんなことがあろうと、どんな人であろうと、みんな「いい人」なのです。私はそう自然に思え、言えるようになった自分がとてもうれしいですし、そう見られるようになったからこそ、まわりに「いい人」ばかりが集まってくるようになったんだと思います。

最後は(3)の「私は役に立てる人間だ」という感覚(貢献感)です。

「金平糖大作戦の神話」にあるように、はじめに、「人類の魂(神)の進化完成」という大目的があって、そのために、それぞれの人の人生のさまざまの体験(失敗も含めて)があるのです。この広い宇宙に、あなたが神様のために担っている役割を、あなたの代わりに果たせる人は一人もいません。
あなたがその人生で体験するすべてのことども(喜怒哀楽のすべての経験)が、人類の魂の進化のためには、どうしても必要なものなのです。

ですから、本当は、あなたはただ生きているだけでいいのです。

アタマでは、私が生きていることに何の意味があるのかさっぱり分からないとしても、ただ地上のいのちがなくなるまで、何とか生き切るだけで、しっかりあなたの役割を果たしたことになるのです。
あっちの世界に帰っていったら、神様が「よくやったね」と喜んで下さいます。

そうとアタマで分からなくても、「そう」なんです。

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