「小さなコトバ集」(その1)

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

坐禅会の仲間で「大敬先生の『小さなコトバ集』を日々の生き方のヒントにしています」とおっしゃる方がいらっしゃって、『それは何だろう、そんな文章を書いた覚えはないんだけれど』と不思議に思っていたのですが、ある時、ふとその話を思い出して、パソコン内を検索で調べてみたところ、何と!「小さなコトバ集」が見つかったのです。

内容もなかなか面白くて(自分で言うのも何ですが)、なるほど文章を作成していた当時の苦労も思い出して(確かに僕が書いたんだなあ)、これをこのまま埋もれたままにしておくのは残念なことなので、しあわせ通信で紹介しておくことにしました。

まず全体を通して読んで下さって、サイコロを一つ用意して、一回目に出た目で(1)~(6)を決め、二度目に出た目で①~⑥を決めると、その日、その日のメッセージが得られる、そういう使い方も出来ると思います。

「小さなコトバ集」

(1)


「私たち表現者にマイナスは一つもないんだよ」(大林宣彦監督の言葉)


人や世界を変えようとするのではなく、まず、ありのままの自分(病弱であったり、欠点があったりする自分)を認めてあげ、受け入れてあげ、許してあげ、抱きしめて、愛してあげることです。
それだけなのです。そのように自分と和解することができたら、まわりの人々や世界とも和解でき、しあわせな世界に住めるようになります。
 

大きいことは神にゆだね、自分で出来ることは自分の力で精一杯努めよう。自分にやれることに全力で取り組まねば神様は決して出動して下さらない。役割分担を間違わないように。


世の中で一番尊い、すごいことは、あなたがあなたという、誰にもマネ出来ない、独自の個性を持ったいのちとして存在しているという事実です。
サイババさんもイエスさまも、おシャカさまでさえも、そのあなたがあなたであるという絶対的な尊さの前では頭を下げ、礼拝せざるを得ないのです。
あなたが自分という存在を認め、許し、とことん愛しぬいてゆくと決め、人がなんといおうが、人のものまねはしない。自分は自分を信じて、どこまでも自分の足で歩いてゆくんだと覚悟が決まった時、欠点と思い込んでいたものから、いくらでも宝物がとび出してきて、こんなはずじゃあなかったのにと、驚きの声をあげられるでしょう。


イライラしている時は、「遠くのもの」を見よう。空や海や星や…。


くよくよしている時は、「小さなモノ」と対話しよう。花とか、ペットとか、蟻とか、小石とか…。

(2)


しあわせになろうと思うなら、まず「自分がいかに恵まれてしあわせであることか」ということに気づいて感謝することだ。不平不満からしあわせは決してやってこない。


歩く時は、大地と対話する気持ちで…。チャンスがあれば大地(芝生や砂浜)に横たわって、そのぬくもりに身を委ねよう。大地はお母さん、天はお父さん。


毎日10分間でも坐禅するという習慣を付けて欲しい。歳をとるほど、「ああ、坐禅を身に付けておいてよかったなあ」としみじみ有難く実感することになるから。


誇りがましいことをすると必ず運が尽きる。目立たぬように、こっそり人のために尽くしてあげよう。


行き詰まった時は、窓を開けて風を入れればいい。また、外に出て強い風に身をさらせばいい。思い込みがほどけて妙案が思い浮かぶ。


まあ、たいしたことではない。何とかなるものだ。

(3)


負けてあげなさい。最後に勝てばいいのだから。


ひたすら一道を貫くという生き方は尊いことではあるけれど、人は二つの顔を持つことによって、モノゴトを客観的にみたり、大きな、あるいは高い視点から考えたりできるゆとりを持つことが出来るということもあります。

中村雅俊さんの話。
雅俊さんがドラマでセリフをとちったとき、「おれは、ミュージシャンだからなー」と言いました。
「じゃあ、歌手として上手く歌えなかったらなんていうの?」と人が聞くと、「おれは、役者だから」と答えたそうです。そばにいるスタッフは大笑いだったそうです。

大敬も教師と道の御用の二つの顔を持って進んでこられたので、うまくいのちのバランスをとって、暴走せずに歩んでこられたと思います。


「カーン」の言霊の詩

人生なんてカーンタン/アカンもスカンもあるもんか
スッカラカーンの覚悟決め/アッケラカーンと進むだけ
人に頼らず、車を借らず/ヘタはヘタなり一歩ずつ
エッチラ オッチラ 歩むだけ
人の評価はどうであれ/自分の心に鳴り響け
キンコンカンコン 歓喜の鐘だ
キンコンカンコン 勝利の鐘だ


「すべての人や動植物や自然の一切を『あなたは仏さまです』とひたすら礼拝し続けたから、私は『仏』となれたのだよ」とお釈迦様は法華経でおっしゃっている。


本気で、大声で「お早うございます」と声かけする努力をするだけで、世界が広くなり、運命が改善する。「挨拶」が最高の呪文、真言なのだということを忘れないで。


身心がつらくなってきたら、森林浴をしよう。植物は周囲に傷ついた生物がやってくると、本能的にその生物を癒やそうとする。
植物はまだ自他を分かつ意識が発達していないので、自分の身体を癒やすのと同様にあなたの身心も癒やしてくれるのだ。
「木々さん、癒やしてくださいね」
「木々さん、癒やしてくださって有難う」
と感謝することを忘れないで…。

(4)


「難有り、有難し」、ピンチは思いをひっくり返せばチャンスだ。


夜明け前の闇が一番深く思えるものだ。夜明けは近いぞ!


自分の力の限界を正直に認めた時、あなたを通して神力が発動する。「非力ひりき」は「日力ひりき」なのだ。


今日の呪文「日日にちにちこれ好日こうにち」、意味は「今日もいい日だ!」これは願いではなく宣言だ。僕がそう決めるのだ。どんな日も「今日もいい日だ!」と生きてゆく覚悟だ。つらい時も、腹が立つ時も、「日日是好日」、「日日是好日」と称えよう。ちなみに、これは雲門禅師の言葉だ。
 

今日の呪文「現成げんじょう公案こうあん」、これは「今自分が体験している出来事は、大宇宙(神仏)にとって、また自分にとっても、こうでしかあり得ない最善・最適の出来事なのだ」という意味。イライラした時、思い通りに物事が運ばない時、「現成公案」、「現成公案」と繰り返し称えてみよう。ちなみに、これは道元禅師の言葉だ。


ヘレン・ケラーの『私の信条』

  • 私は神を信じ、人を信じる。また精神(心)の力を信じる。
  • 私は、自己および他人を鼓舞激励すること、神が創られた世界に対し、不幸という言葉を発しないことを神聖な義務であると信じている。
  • なぜならば、神が善く創り、多くの人が善くしようと望んで努力してきたこの宇宙について、いかなる人間であれ、嘆息する権利を持たないからである。
  • 私は、いかなる人間にも、他人の疾苦艱難を座視して、自分ひとりが安楽な生を貪ることのない、幸福な時代に近づけようと活動すべき責務があると信じている。
  • 私が信条とする光明主義とは、善を信じ、輝かしい未来の到来を確信し、明日を今日より美しいものにするための努力を重ねる生き方なのである。

明日あす今日きょうより美しい。
明後日あさっては明日よりさらに美しい。
「光明主義者」はそのように信じている。

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