2025年3月更新分より、しあわせ通信は毎月1回(15日)の更新に変更いたします。
次回の更新は3月15日(土)を予定しております。
ご理解のほどよろしくお願いいたします。
日本的霊性の復活は、江戸時代末期からスタートしました。
それ以来、各段階に三名ずつ主要人物が出現されて、それぞれの役割を分担されつつ日本的霊性の発展に寄与され、現在は第3ステージまで進んでいます。
大敬は只今、第3ステージから第4ステージへの引き継ぎ役をつとめています。
第1段階を担当されたのは、黒住宗忠(黒住教祖)、中山ミキ(天理教祖)、川手文治郎(金光教祖)の三名です。
黒住教祖は「日の担当」、天理教祖は「月の担当」、金光教祖は「地の担当」という風に役割分担されて日本的霊性発展のために寄与されました。
三者いずれも「心」を大切に説かれていて、日本的霊性発展のためのメインテーマが、実は「心」を育てることなのだということがよく分かります。
ここでは、この三者が「心」をどのように捉え、説いておられるのか知って、私たちの人生の歩みの参考にして頂きたいと思います。
(1)黒住教祖の「心」
「心」の重要性を最初に発見されたのは黒住教祖です。
34歳の時、両親が相次いで亡くなられて傷心の末、ついに病(肺結核)となり、医師もさじ匙を投げ、占いの結果も「必死」と出て、覚悟を決めて死を待たれていたのです。
そうして、「自分は死んだら神となって、世の病に苦しむ人たちを救いたい」と心に誓われました。
その時、ふと思い付かれたのは、「自分は父母の死を悲しんで<陰気>になったために大病となったのだから、心さえ<陽気>になれば病は治るはずだ。せめて残る息のある間だけでも、そのように心を養うのが孝行である」と思い定められ、<有り難いこと、面白いこと、楽しいこと>だけに心を向けて心を養っていると、不思議なことには、その時を境として、病が次第に軽くなったのです。
そして、35歳の冬至の日に日拝した時、太陽の陽気が胸に入って、腹に届き、そこから全身に浸透し、なんとも喩えようのない、さわやかなよい気分になったのです。「笛を吹き、糸を調べ、金をたたき、鼓を鳴らして歌い舞うとも及びがたい」ほどの楽しさで、身心とみに快活となったとあります。
教祖はこの体験を<天地生々の霊機>を自得したと表現しておられます。
そして、新生された教祖からは、死に瀕した際に誓われたように「人の身心の病いを癒やす神的な力」が発現するようになりました。
この体験のポイントは、「心」が<陰気>になったから病気になった。「心」を<陽気>にしたら病いが消えたというところですね。
つまり、<心によって、身体の状態や運命や住む世界を変えることが出来るんだ>という黒住教祖の発見、気づきが、以後の日本的霊性発展の土台となりました。
黒住教祖は、人の「心」は、天照大神(日の神)ご自身の「御心」を分与されているのだとされます。この分与された「心」は日の神さまからのレンタカー(自分を目的地まで運んでくれる乗り物)で、自分の所有物ではないのです。だから、汚したり、傷つけたりしては申し訳ないことなのです。
それに、この車にはハンドルもブレーキもなくて、自分の「思い」だけで操縦しなければならないので、操縦がとても難しいのです。
けれども、そんなコントロールしにくい車を何とか工夫して、操縦出来るようになってゆくと、人の「心」の性能は天照大神の「御心」のそれに近づいてゆくようになりますね。
ということは、その人の魂も次第に天照大神さまのそれに近づいてゆき、天照大神さまと「生き通し」になってゆくということで、最後はついに「ひとつ」になる。そうして、私たちは高天原という魂の故郷に復帰して「一体」となることが出来るのです。
では、天照大神さまから、学びのためにお借りしている「心」が持っている本来性とはどういうものなのかというと、日の神様の特性である「陽気・生々・創造」がそれなんだよと言われます。
つまり、カラッと明るくて、温かくて、生き生きしていて、創造性に富んでいるのが「心」の本来性なのであるとされるのです。
ですから、その本来性を邪魔せずに、そのまま発揮出来るようにさえすれば、それでいいわけです。
そんな「心」の本来性「陽気・生々・創造」を覆って発動出来ないようにしてしまうのが<陰気>です。
「心を傷つける」と、「心」が<陰気>になってしまい、生命力が減退し、おっくうになり、身心の病になったり、不幸な出来事を引き寄せてしまいます。
では、どうしたら「心を傷つける」ことになるのかというと、たとえば「腹を立てること」、「物事を苦にすること」などです。「心」が傷つくと、陰気になり、ケガレ(気枯れ)が生じます。
「心」を<陽気>にすれば、身心の病は治り、運命は改善されてゆき、自分の能力が一番発揮出来るような場、イノチの可能性を広げてゆける役割に導かれます。
「心」を<陽気>に戻してゆくには、「心を養う」ことが必要です。
「心を養う」には、「よきことがあれば有難いと楽しみ、悪いことある時は、これも修行(学び)と受け止められれば、何事も一切修行をもれることがなくなります。その余のことは万事有難いばかりです」と語られているような物事の捉え方をすることです。
そのような捉え方が出来るためには、その前段階として、まずアタマを休めて「無心」に近づく必要があります。
つまり、アタマのモヤモヤで「心」を覆ってしまわないこと。そうすれば、自然と「陽気・生々・創造」という「心」の本来性が発揮出来るようになるのです。
「姿なき心一つを養うは かしこき人の修行なるらん」という黒住教祖のお歌があります。
ですから、坐禅は有難いのです。ただ坐るだけで、アタマの努力は何もしていないのに、自然と無心に近づき、「心が養われてゆく(充電されてゆく)」のですからね。
さらに「心を養う」には、神様に「オミキ」をお供えすることが必要です。
「オミキ」とは、「有がたキ また面白キ 嬉しキと みき(神酒,三キ)をそのふぞ信成りけれ」とある、「三つのキ」のことです。
ものの見方を味方にするのです。日常生活で、この「三つのキ」を常に見いだして、「心」に刻んでゆけば、やがて「有難いもの、面白いもの、嬉しいもの」が現実化して、そんな嬉しい訪れにあなたは取り囲まれるようになります。
(2)天理教祖の「心」
天理教の神話によると、混沌とした泥海の中に居た親神(天理王命,月日)さまが、ふと思い付いたことには(はじめは月神さまが思い付き、日神さまを引き寄せて協力してもらったのだそうです)、「人間というものを創って、その<陽気遊山(陽気ぐらし)>」する姿を見て、共に喜ぼう」と。「遊山」とは、「野や山で楽しく遊ぶこと」です。
それで、「八つの守護」を与えて、世界を創り、人も創り出しました。
「八つの守護」とは、① 水の守護 ② 火の守護 ③ 万つなぎの守護 ④ 万つっぱりの守護 ⑤ 水気上げ下げの守護 ⑥ 風(息吹き分け)の守護 ⑦ 切ること一切の守護 ⑧ 引き出し一切の守護 のことです。
しかし、そのようにして創りだした「人」が、神の思惑の通りに動くロボットのような存在であれば、神も人もちっとも面白くありません。それでは<陽気遊山>にはなりません。
「遊び」というものの本質を松本滋先生は次のように説明しておられます(『人間の元なるもの』(天理教道友社))。
(1)「自発性」を備えていること。自らやろうという気持ちにならないと遊びになりません。
(2)「無償性」を備えていること。損得抜きの行動でなければ遊びになりません。
(3)「楽しさ」があること。
(4)「共同性」があること。みんなと一緒に行うから楽しいのです。
(5)「ルール」を守ること。遊びにはルールがあって、自分も人もそのルールの枠内で、いかに自在にプレイするかを競うから面白い、楽しいのです。
「遊び」には、以上の5つの要素が必ず含まれています。
親神さまは、以上の5つの要素を含んだ、地上世界というグランド内での人の行動、振る舞いを見て、共に楽しもうとされたのです。
そして、人に「心」というものを授けました。
「人間というものは、身はかりもの、かしもの、<心一つが我がもの>。たった一つの心より、どんな理(人生の歩み方)も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け」と天理教祖(親神)は語られています。
つまり、「君たちの身体は私(親神)からの借り物であり、私(親神)からの貸し物である。しかし、「心」だけは、君たちが我が思いによって操縦できるという自由を与えることにしよう。
何故かといえば、私(親神)は、君たち皆が陽気に楽しく遊びながら、神の理念の通りの世界を地上に建設してゆく(日の寄進)姿を見て楽しみたいからだ。そして、君たちがついに「心」を自由自在に操れるようになれば、もうその時は、君たちは私(親神)と一体であるのだ」と。
また次のようにもおっしゃっています。「人間はこれまでに何不自由なく、便利で結構な生活をさせていただいている。なれど、たった一つの不足がある。それは、めいめい思うことが思うようにならん。しようと思うことが成らずして、しようまい(するまい)と思うことが成ってくる。それで嘆いている。
そこで、この度、思い通りかなうようになる理、<自由自在>という理を教える。この一つの理、教えたさに天降りたのや」
なぜ思い通りに事が運ばないのでしょうか。
それぞれの人の魂は本来「光輝く珠」で、その光りは全宇宙を照らしています。魂がその「光輝く珠」のままであれば、思うことがすぐ現実となり、言うことがすぐ実現します。
それなのに、「心のほこり」によって、その「光輝く珠」の性能を覆い隠してしまうから、光りが世界に届かず、思い通りの人生を生きることが出来なくなってくるのです。そして、身心の故障や、不幸な運命を招いてしまうのです。
「心のほこり」には、八つの種類があるとされます。なぜ八つなのかというと、親神さまが人や世界に与えている「八つの守護」のそれぞれに違反する「心遣い」によって、「ほこり」が発生するからです。
その「八つの心のほこり」とは、
(1)「ほしい」 必要以上のものを欲しがったり、相手に対してこうあって欲しいと過度に要求するのは「ほしい」という「心のほこり」です。これは「水の守護」に対する違反だとされています。
この「ほしい」のほこりは、体(特に眼)や運命のうるおいに関する病や難渋を引き起こすとされています。
(2)「おしい」 自分だけで独占したい、減らしたくないという「心のほこり」です。 困っている人に施すのが惜しい。人のために時間を割くのが惜しいなど、物、金、暇、力など、何によらず、出し惜しむ心遣いです。
これは「火の守護」に反する心遣いだとされています。この違反は、体や運命のぬくみに関する病や難渋を引き寄せることになります。
(3)「かわい」 平等で隔てのない愛情というのではなく、特定の人やモノに対する偏った、執着した愛情が「かわい」の「心のほこり」です。この「かわい」の「心のほこり」が強い人は、次の「にくい」という、人や組織や国に対する偏った、執着した憎悪を抱き勝ちになります。
この「かわい」は「出入り、上げ下げの守護」に対する違反だとされ、体や運命の、出し入れが滞る病や難渋を引き寄せるとされています。
(4)「にくい」 偏った思い込み、執着から、罪のないものに対してさえも憎いと思い込み、いったん思い込んだら、憎い理由を根掘り葉掘り探し出そうとするような「心のほこり」です。
これは「息吹き分け(風)の守護」に反する心遣いで、体や運命の息苦しさの難渋を引き寄せてしまうことになるとされています。
(5)「うらみ」 自分の思惑の邪魔をしたとして恨み、人が言うように動いてくれないといって恨み、自分のことを反省せず、またこの世のことはすべて因果の法則によって起こってくるのであって、根源は実はすべて自分にあるのだと気づかないで、人や組織や国などを恨む「心のほこり」です。
これは、「万つなぎの守護」に反する心遣いで、体や運命の外界との境目、皮膚や他者との諍いの難渋を引き寄せるとされています。
(6)「はらだち」 大らかな心で許したり、忘れたりせず、すぐ人や組織や国に対して腹を立てる「心のほこり」です。
これは、「万つっぱり(支え、維持)の守護」に反する心遣いだとされ、体や運命の骨や脊髄の病や生活や家庭の安定に関する難渋を引き寄せるとされています。
(7)「よく」 あきらめることを知らず、法を犯してまで、どうしても欲しいものや地位や名声を手に入れようとするような「心のほこり」です。
これは、「切る働きの守護」に反する心遣いとされ、体の病の根が切れず、悪い運命が切れずにいつまでも続くというような難渋を引き寄せるとされています。
(8)「こうまん」 人より自分が上であると自慢したり、威張ったりしたい「心のほこり」です。
これは、「引き出しの守護」に反する心遣いとされ、体や運命の「八方ふさがり」や「伸び悩み」の状況の難渋を引き寄せるとされているのです。
以上のような「八つの心のほこり」のせいで、楽しくて、明るい、陽気な人生が送れないのだから、人生の場面毎に、「心遣い」の過ちに気づいて、改めてゆきなさいというのが、天理教の日常生活での教えなのです。
(3)金光教祖の「心」
金光教の根本的な教えに<天地書附>というものがあります。
生神金光大神
天地金乃神 一心ニ願(え)
おかげハ和賀心にあり
今月今日でたのめい
「生神金光大神」というのは、川手文治郎さんが神から授けられたお名前です。
「天地金乃神」というのは、金光教の神様のお名前で、はじめはたたり神「金神」でしたが、文治郎さんの実意丁寧な信仰によって、次第に神格が変化してゆき、ついに人を護り、共に歩んで下さる、頼りがいのある「愛の神、保護の神」となり、神の名も「天地金乃神」と変わったのです。
神の成長に伴って、文治郎さんが神から与えられる名前も変化してゆきました(「一乃弟子」→「金光大明神」→「金光大権現」→「生神金光大神」)。「生神金光大神」は最後に神様から授けられたお名前です。
「一心に願え」とあります。目標がハッキリしない、ピントが合っていない「心」や、目標に集中しないで「心配」によって、心のエネルギーを過去や未来に散乱していては、おかげはないよとおっしゃっているのです。
また、「おかげハ和賀心にあり」とあります。「和賀心」とは「我が心」のことで、神がおかげを授けようとしても、「心」の状態が悪いと、人はおかげを受け取れないよとおっしゃっているのです。
また、「和」と「賀」の心にならないと、おかげはないという意味も含めていらっしゃいます。
「和」とは、人やモノや事と調和する心、そして、「賀」とは、人やモノや事を喜ぶ心のことです。
「神がおかげをくれると思うな。己が一心でもみ出すと思え」とも金光教祖はおっしゃっています。
そして、「今月今日でたのめい」は、私の言葉でいうと、<今・ココ・わが身>に成りきって神に頼めという意味です。
「今月今日」で祈り、お願い出来なければおかげはないよ、とおっしゃっているのです。
では、どういう「心」の状態であれば、「今月今日」の祈りになれないのかというと、過去のことを後悔しながら、憤りながら、恨みながら祈っても、その祈りは叶わないのです。過去にイノチの重心が偏っています。
また、未来のことを不安に思ったり、心配しながら願ってもおかげはないとおっしゃっているのです。これは未来にイノチの重心が偏っています。
たとえば、「この目標はとても自分では達成出来ない」と自分の能力を否定してしまうのは、過去の延長上に未来を見てしまっているからです。つまり、<今・ココ>に成りきった願いになっていないのです。
また、自分の能力でやらねばならないのだと誤解しているのです。神様にお願いして、神様のお力で達成して頂くのだから、自分の能力が1パーセントしかなくても、あとの99パーセントは神様に足して頂いたらいいのです。
私がいつも皆さんに言っているように、<今・ココ・わが身>に成りきることが出来れば、意識(思い)が天(神)まで届く。思いが天まで届いたら、天から、その思いの実現に必要なエネルギーなり、能力なり、お金なり、人や道具との出会いなどの「おかげ」が降ってきます。
以上をまとめておくと、黒住教祖は「心」の本来性が「陽気・生々・創造」であることを示し、その本来性に任せて、発動して頂くことが大切である。そのためには、アタマが出しゃばらないようにすることだと説かれました。
アタマが出しゃばりすぎると、その「ほこり」で「心」の本来性発揮が覆われてしまうのです。天理教祖は、そんなアタマの出しゃばりの「ほこり」にはどんな種類のものがあるかを示され、その「ほこり」によって、身体や運命にどんな障害が発生するかを示されました。
最後に、金光教祖が現れて、地上世界でイノチの可能性を広げてゆくために必要な「心」の持ち方を工夫しなさいと示して下さいました。
イノチの可能性を広げるには、狭い「心」を広い「心」に成長させてゆくことが必要で、そうすれば、人は神の領域に近づいてゆくことになり、やがて人と神が一体化してついに地球次元の魂の進化過程が修了するのです。