マイ ライフワーク

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

学校に勤務していた時に、高校2年の学年文集の依頼で書いた文章です。

私のライフワークは鎌倉時代の道元禅師の主著「正法眼蔵」の研究です。十九歳から読み始めて、もう三十八年間も読み続けているということになります。

この書は難解であると知られていて、『世界一難解な哲学書だ』と評した哲学者もいました。

その難解さがどんな種類のものなのか、眼蔵中の有名な(比較的わかりやすい)一節を紹介しますので、とりあえず読んでみて、その意味を考えてみてください。

(1)仏道をならふといふは、自己をならふ也。
(2)自己をならふといふは、自己をわするゝなり。
(3)自己をわするゝといふは、万法ばんぽうに証せらるゝなり。
(4)万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己たこの身心をして脱落とつらくせしむるなり。
( 以上 正法眼蔵第1章現成公案より)

いかがですか。なかなか難しいでしょう。とりあえず、ひと通りの解釈だけはやっておきます。

(1)の『仏道』とは、『仏となることをゴールとして歩む道』のことです。

しかし、仏道を学ぶとは、自分が仏になることを学ぶ(まねをする)というのではなく、自分が本当の自分になることを学ぶことなんだ。自分が本当の自分となることこそが、実は仏となるということなんだとおっしゃっているのです。

(2)では、自分が本当の自分になりきれるのは、どういう時なのかというと、その自分というものが忘れられている時なんだよとおっしゃるのです。

つまり、今・ココで出会った課題に全力で取り組んで、我(自分)を忘れて没頭しているような場合、その人の特性が最高に発揮され輝いている(本当の自分が現れている)と、おっしゃるのです。

いのちというものは不思議な事には、どの瞬間も『今・ココ』のうえにあります。

ところが、人間には頭というものがあるものだから、過去や未来や他の場所に意識を飛ばしがちで、なかなか、『今・ココ』という、いのちの本来の落ち着き場所におさまりません。

そういう中途半端な、へっぴり腰の課題への取り組みでは、自分の本当の能力をフルに発揮出来ないのです。

道元禅師は、いのちは常に今・ココの当事者であるとして、客観や傍観に対して、『当観』という言葉を造語しておられます。

(3)そのように、『今とココ』の課題から逃げ出すことをやめ、本腰を入れて取り組むようになったとき、その人にはどういうことが起こってくるかを、この文章で説明しておられます。ここはやや神秘的で、体験で自覚するしかないところです。

我を忘れて課題に取り組んでいるとき、自分が忘れられたということは、その人のエゴ性が取り除かれたという事、自他を区切っていた仕切りが取り除かれたということなのです。そうすると世界全体が一体となって、その人の課題解決のために、全面的に協力してくれるようになります。

ここで、『万法』の『法』とは『存在』という意味で、『万法』は『世界』とでも訳しておけばいいでしょう。『証』とは、『はっきりした、具体的な形として表現する』という意味です。

つまり、我を忘れて(エゴ性を忘れて)、その目下の課題に全力で取り組んでゆけば、世界中のモノゴトが寄ってたかって、その課題の解決成就を具体的な形として表現すべく協力してくれることになるとおっしゃっているのです(君たちの受験という課題でもそうなのですよ)。本気の取り組みは、世界をひん曲げてしまうほどすごいものなのです。

(4)さて、そのようにして自分が合格出来たとして、それは自分の力だけで合格できたのではありません。世界全体が自分の合格のため働いてくれ、協力し、後押しして下さって合格できたんだと気づいたとき、その人ははじめて自他の別なんて本当はなかったんだ。本当はいのちはひとつしかなくて、だからこそ、自分のために世界が動いてくれ、いつかまた自分は世界のために動くことになるんだと気づくのです。それが、『自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり』です。自他や世界のモノゴトを分けていた仕切りが脱落して、生き通しのひとつのいのちとなるのです。

ここで、自己・他己と、自にも他にも己(おのれ)を付けておられるところにも注目して下さい。自と現れ、他と現れていても、みんな自分なのです。

さて、以上が解釈の一端です。自我性を超えた時、なぜその人の最高の力が発揮できるようになるのかというあたりの研究は、トランスパーソナル心理学という分野で研究されています。アブラハム・マズロー、ケン・ウィルバー、ロベルト・アサジオリなどが有名です。

また、附設の図書館には「正法眼蔵」の全巻を解説した全集があります。これは五代目の校長、原巳冬みとう先生の寄贈で、原校長は禅をやっておられて、私の師匠であった、内山興正老師とはお友達で、私が修行していた京都の道場へもよくおいでになって坐禅しておられたそうです。この学校に赴任してから、そのことを知って、奇しき因縁に驚きました。

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