グーの世界

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信177号」の内容を再編集して掲載させていただいています。

現代の科学技術をリードしているのは、「量子力学」で、トランジスターやICチップや太陽電池、発光ダイオードなどの製品のもとになっているのも、実は量子力学の理論です。

しかし、量子力学の理論は実に奇妙なもので、世界中捜しても、本当に量子力学が理解出来ている科学者は一人もいないだろうとさえ言われています。
量子力学のさきがけとなったアインシュタインでも、亡くなるまで量子力学の理論には納得出来ないと反対していたそうです。

そんな奇妙な理論なのですが、これまでのところ、その理論に破綻はたんをきたすような現象は見出されていないのだそうです。

たとえば、ある小さな箱の中に、素粒子を一つ投入します。そして、フタをしてしばらくして開けると、箱の中の、ある場所に粒子が見出されます。
しかし、フタを閉めたら、もうその素粒子は存在しないと量子力学の理論は主張するのです。観測しない場合は、素粒子はある種の波になっているというのです。そして、箱の中の波の重ね合わせで、箱を開けた時に素粒子が発見される場所の確率は計算できるといいます。

もし、何千回、何万回、フタを開けて、粒子の位置を確かめるという実験を繰り返すと、観察の回数が増加するにつれて次第に、先ほど計算した各位置での存在確率に近づいてゆきます。

フタを閉めたら粒子はなくて、波があるんだということが納得できないので、その波を見せてくれと要求しても、それは出来ないというのです。
というのは、観測者の目(人の意識)が介入すれば、その途端に、波は粒子に変化してしまうので、その波動状態は決して観察出来ないのだというのです。

私は、高校生の時に、私は今、この場所にいるけれども、私が今、観ていない世界は、果たして本当に存在しているのだろうかと疑問を持っていたような人間なので、観察していない世界は確率の波という形で存在し、観察した途端、そこに世界が形成されるのだという、この量子力学の発想には、あまり違和感がありません。

私が高校生時代に感じていたもう一つの疑問は、もし私が見ていないとき(意識の関与がないとき)は、私が見ていない世界は実はナイのだとすると、再び私がその世界に遭遇した時、以前見たその世界とつじつまがあう現われ方をしているのはなぜなんだろうかという点です。

たとえば、昨日行った時、こういう建物配置の町だったとして、今日再びその町を訪問した時、どうして同じ配置の町のように現われるのだろうかという疑問です。

いまでは、それが仏教理論でいう阿頼耶識あらやしきのはたらきによるものなのだと分かります。

阿頼耶識あらやしきには勝れた記憶保存装置があって、これまで経験したモノゴト、また経験していない世界のすべてのモノゴトを、細大漏らさず記憶していて、それを世界として投影します。その阿頼耶識のはたらきがあるからこそ、本来一瞬、一瞬立ち消え、立ち現われている、不安定このこの上ない世界を、あたかも安定した世界であるかのように見せているのです(そうでなければ、地球次元の進化ゲームを存分に楽しむことができないので、そのように世界が固くて、重いものと感じられるように基本設計されているのです)。

しかし、またその阿頼耶識のはたらきは、過去の記憶の延長上に世界や自分を固定し、人生や世界が方向転換することを困難にしたり、一定の方向にしか行けないように強制したりする、困ったはたらきもしてしまいます(これを仏教では「ごう」といいます)。

もう一つの疑問は、箱の中の素粒子のたとえに戻って、波の計算によって、ある場所に粒子が見出される確率が分かるというのですが、フタを開けたとき、粒子が発見される場所は一箇所だけですね。存在確率80パーセントの場所に発見されることもあれば、確率わずか0.1パーセントの場所に見つかることもあります。

もちろん、何千回、何万回とフタを開けて素粒子の位置を確認するという実験を続ければ、最終的には、波として計算された存在確率に一致するとしても、私たちはそんな確率の世界に生きているわけではありませんね。

常に、刻々、1回限りの世界を生きていて、次々、新しい世界を迎えています。その新しく生きることになる世界が存在確率80パーセントの世界であることもあれば、確率わずかに0.1パーセントの世界であるということもあるわけです。

たとえば、阿頼耶識のはたらきによって、過去の貧困の記憶をしっかり保持している人は、その貧困路線の延長上にある、貧しさを継続させてしまう世界を迎える確率は高くなるでしょう。これがたとえば先ほどの80パーセントの存在確率の世界の例です。

しかし、これまで貧困にあえいでいた人が、その人にとっては、わずか0.1パーセントしか存在する確率がない、豊かでしあわせな世界を迎えるというケースもあるわけです。

その差を生み出すものは何なのでしょうか。

どちらの世界に置かれるかは統計・確率に従った偶然にすぎないとするのが量子力学なのですが、私はそうではないと思うのです。

私は42歳を境に、ずっと確率0.1パーセントの世界(ありえないようなラッキーな世界)を次々迎えて生きて来られたように思うのです。これはとても偶然だとは思えません。きっと私の運命を好転させたコツがあるはずなんです。

運命を変えるのは、やはり「意識の差」なのでしょうね。

意識が、過去の惰性に引きずられることなく、次に迎える世界を自らの意志で決定出来たら、存在確率などに左右されずに、自由に次に住む世界を選んでゆけるということなのでしょう。

世界(私たちが今体験している世界は、実はすでに過去となってしまった、もうナイ世界なのです)によって自分の人生の道行きが決められてしまうのではなく、実は自分の意識が、刻々世界を生み出しつつあるのだ。私の意志、意識が核となって、それに従って周りの新しい世界ができるのだと知っておくことが大切だと思います。

量子力学では、観察しないとき波として広がっていたものが、意識の眼を向けた途端、いずれかの場所に波が凝縮して粒子となるのだという解釈と、もう一つは、粒子が存在するであろう場所ごとに、それぞれ別の世界が可能性として用意されていて、観測者によって、そのいずれかの世界が選択されて、その世界での位置に粒子が見出されることになるのだという「多世界解釈」というものがあるそうです。

道元さんは、この後者の解釈に近い考え方をしておられたようです。
現成公案げんじょうこうあん』の中の「舟のたとえ」で、そのことが分かります。

道元さんは、「いのち」を「舟」にたとえ、「意識」を「舟の乗り込んで舵を取る人」に、舵取り人の前に次々現れてくる岸辺の風景を「世界」に喩えておられます。

道元さんの文章を、解説を加えながら現代訳しておくことにします。

舟(いのちのたとえ)に乗って岸(世界のたとえ)を見ると、岸が動いて自分のほうに次々やって来るように感じられる。そうすると、世界はいやおうなしにやって来るものだという受身の思い込みが生じる。

しかし、本当は岸が動いているのではなく、自分(舟)の方が動いて進んでいるのだ。本当は世界は来るのではなく、こういう世界に住もうという意志が舵を取って、いのちの舟をその世界の方に進ませているのだ。

世界がいやおうなしに自分に向かってやって来るのだと錯覚する人は、自分の心の傾向性は変えられない、業は消えない、運命は生まれた時から決まっているのだという運命決定論者になってしまう。

もし、過去の延長上に未来が決まってしまうのだというような思い込みをやめて、今・ココの自分にしっかりいのちの重心を据えて生きる覚悟が決まれば、自らの決断で、次に住む世界を選んで舵取りして進んでゆくことが可能であるということが分かる。

そんな人にとっては、世界は変更不可能な固く重いものではなく、また、自分といういのちの進路を制限、制約する囲いや壁なんて実はどこにもないのだということが分かるのだ。

12月の禅の会では、最後に恒例のじゃんけん大会をしました。
勝ち抜き戦で、最後まで勝ち残った人が、来年の最強の福男(女)だということになるのです。

その戦いで、私は最後まで勝ち続けて福男になってしまいました。
そのときの私の体験が、「運命改善のコツ」だと思うので紹介しておきます。

そのとき、私は勝とうとはしていなかったのです。
大敬さんがチャンピオンになってしまうというのも大人気ないことですからね。
ですから、例年は、一、二度ほどじゃんけんして敗退してしまうというのが恒例だったのです。
それで、今年は、「チョキ、グー、パー」をその順に機械的に出し続けることにしたのです。

ところが、負けないのです。なぜだか次々勝ってしまうのです。

次第に不思議になってきて、これは神様の何らかのメッセージに違いないと気が付きました。
そして、その神さまの伝言を受け取ることができました。それは次のような内容でした。

私がグーを出す時、そのグーを中核として新しい世界が誕生するのです。
そして、その新しい世界では、私の目の前に対戦相手の人がいて、その人はチョキを出しているのです。

グーを出せば、そのグーの一動作がそんな世界を生み出すのです。ですから、負けるはずがないのです。

これから、勝負しようという意識を持っていれば、勝ったり負けたりということがあるでしょう。
しかし、私の場合は、私がグーを出せば、グーの世界が開けるというだけのことで、その新しく誕生した「グーの世界」には、なぜかチョキを出す人がいるというだけのことなのですから、決して負けることはないのだと確信できたのです。

何と単純なことでしょう。何とサッパリとした力強い真理なんでしょう。

そういうわけですから、私はグー、チョキ、パー、どれを出してもよかったのです。チョキを出したら、その一動作を核として「チョキの世界」が誕生する。その世界にはなぜか目の前にパーを出す人がいて、私が勝つことになってしまうのです。

面白いですね、私が世界に合わせるのでなく、世界が私に合わせて変わってくれるのです。

先日の日本シリーズでの実験では、勝敗の意識を離れて、ただ選手たちを受け入れ、許し、愛し、抱擁するだけで勝てるということが分かりました。

これはモノの見方(観)を解放することによって世界を自在に創造する「想いの実現法」でしたね。般若心経の冒頭の『観自在』という言葉は、この境地を示しています。これは観音さまの境地です。

そして、ジャンケン大会で発見した「想いの実現法」は、グーを突き出す一動作で、旧い世界から来るしばりを断ち切り、新しい望み通りの世界を立ち上げる方法で、これは文殊さまの境地です。そして、これは禅的な方法なので、少し難しく感じられるかもしれませんね。 

と、ここまで書きおえたところで、気づいたことがあります。

先ほど、このジャンケン大会で、「チョキ・グー・パー」の順に出すという方針で戦いに挑んだと書きましたね。

その作戦は私が無意識に決めたことなんですが、それにもちゃんとした意味があって、それも神さまのメッセージだったのです。

チョキで、旧い自分や世界をチョキ、チョキ切って、
グーで、こうするぞと自分の意志をグーッと押し出し、
パーと開けば世界が出来る。想いがかなう世界が開く。

というわけだから、「チョキ→グー→パー」の順だったのですね。
 
そして、その三つの想い実現に至るまでのプロセスを、一動作でやってしまう(たとえば、こぶしを一つ押し出すという行為だけで旧い自分と世界を断ち切り、こうするという意志を示し、そして新しい、望みがかなう世界を生み出す)のですから、すごいことですね。

もちろん、念仏や題目を唱えたり、お経をあげたりするのも、このチョキ・グー・パーの「想いの実現法」の三段階を実践するものなのですが、禅の面白いところは、ぜんぜん宗教臭のない、日常生活の当たり前の動作や言葉で、過去からの惰性の引力を断ち切って、新しい世界を創り出すことができるというところです。

たとえば、「オハヨー」の一言で、我が運命を変え、住む世界を新装開店させることも出来るのです。

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