あゆむ

しあわせ通信(毎月15日更新)

学校に勤務していた頃に、学年通信の巻頭言を依頼されて書いた文章です。

『歩く』という身体の行為を『人生の歩み』と絡めて考察してみることにしましょう。

歩く時は、右足・左足、交互に大地を踏みしめて前進します。右足が大地に接している時、左足はありません(意識していないということ)。次に左足が大地に達した時、もう右足はどこにもなくて、全体重が、この左足の一点にかかっています。これが正常な歩み方です。

人生もその通りです。あるのは、<今・ココ>の一点のみで、過去はもう過ぎ去ってナイから過去なのだし、未来は未だ来なくてナイから未来なのです。

ですから、本当にアルのは、<今・ココ>の一点のみです。その一点に我がイノチの全体重をかけて、重心をその上にしっかり置いて進んでいくからこそ、無理、無駄のない、よい人生の歩みができるのです。

いつまでも、頭の中に過去を留めて固着している人は、イノチの全体重の重心が後ろに傾いて仰向けにひっくり返ってしまいます。未来の夢に固着する人は、足下がお留守になって、前のめりに倒れてしまいます。

<今・ココ>の一点の鉛直線上に、自分のイノチの重心をしっかり保って、しかもどの<今・ココ>の一点にも固着しないというあり方ができた時、人は最高度の前進を遂げることができるのです。

では、未来に目標を持ち、夢を描くのは、いけないことなのでしょうか。そんなことはありません。西鉄久留米駅から附設中学に行くという目標を立てて歩き始めるとします。

その間、いろんな物事を見聞しながら、ふと気づくといつの間にか附設についていた、という経験があるでしょう。このように、ある目標をたてると、歩み続けさえしていたら、その目標を忘れていたとしても、必ず目標にたどり着く、そのようにイノチはできているのです。

たとえば、東大に合格するという目標を持った人がいて、その東大という未来の夢に固着して、<今・ココ>の、足下の学習がおろそかになってしまっている人は合格できません。東大に合格できるひとは、もう東大合格という目標さえ、すっかり忘れてしまうほど、<今・ココ>の勉強に没頭できる人です。

大学時代に和田重正という方と出会って、大きな影響を受けました。和田先生は小田原で『はじめ塾』という塾をやっておられましたが、この塾は現在あるような進学塾ではなく、生徒たちと生活をともにして、その中から学んでいくという生活塾でした。

和田先生は高校生の頃、英語がまったく出来ませんでした。英単語が覚えられなかったからです。なぜ覚えられないのかというと、まず始めの単語を覚えて、次の単語を覚える作業に移ると、前の単語を忘れるのではないかと心配でならないのです。ですから、今の単語に集中できない。これは、過去に意識が固着して<今・ココ>の一点にイノチの全体重をかけられない実例ですね。それで、単語を覚えるのに、莫大な時間を費やして、しかも、うまく覚えられないという結果になっていたのです。

そんな高校生時代のある日、道を歩いていて樹から葉がハラリと落ちるの見られたのです。その時、『ああ、このように忘れたらいいんだ』という気付きがあったのです。そして、ひとつ単語を覚えた後、『よし、忘れた』とゴミ箱に放り込むのをイメージして、次の単語に取り組むようにしたのです。

そうすると、忘れたはずの単語が見事に記憶されているという事に気づかれました。それから、英語の成績がどんどん良くなって、おまけにその『忘れる』技術が他教科にも応用出来ることがわかり、ついに東大に合格されたのでした。

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