道元禅師の「布施」論

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

道元禅師に『菩提薩埵四摂法ぼだいさったししょうぼう』というタイトルの文章があります。

「菩提薩埵」とは「菩薩」のことです。
「四摂法」とは、「菩薩が、生きとし生けるものたちを手元に招き寄せ、導き、育てるために保つべき四つの心構え」という意味です。

私たちも、まだ生まれたてのホヤホヤですが「菩薩子ぼさつし」なので、この4箇条は、私たちも大切に実践してゆきましょう。

その4箇条の心得は、「布施ふせ」、「愛語あいご」、「利行りぎょう」、「同事どうじ」です。

「布施」とは、物質的、精神的に得たものを独占しないで、分かち合うこと。物質的に、精神的にツライ状態にある者に手を差し伸べ、足を運ぶことです。財で行う布施(寄付など)、体で行う布施(ボランティアなど)、法の布施(たとえば、人を坐禅に導いてあげるのは、この法施ほっせにあたります)などがあります。

「愛語」とは、やさしいことば、慈愛に満ちたことば、愛情のこもったことばをかけることです。穏やかな態度で声かけをする人に、人でも動物でも引き寄せられます。

「利行」とは、その対象の成長のためになると判断した行為を、見返りを求めずに行うことです。

「同事」とは、お高くとまって、人を救ってやる、指導してやるという高慢な態度を示さず、その人と同じレベルまで下って、気持ちを思いやってあげて、喜怒哀楽を共有しながら、少しずつ相手が向上するよう、粘り強く導いてあげることです。

では、道元さんは、そのような一般的な意味を踏まえた上で「四摂法」をどのように解釈しておられるのでしょうか。『菩提薩埵四摂法ぼだいさったししょうぼう』の本文を読んでみましょう。

まず、<布施といふは、むさぼらざるなり>とあって、オヤッと驚きます。要するに、財物や精神的な悟りを独り占めしようとしない態度が「布施」なんだとするのです。これはどうなんでしょう?なんだかずいぶん消極的な布施定義のように感じられませんか。

次に<道を道に任するとき、得道す。得道のときは、道かならず道に任せられゆくなり>とあって、この文章は「布施」という主題とどういう関係があるのか謎です。「任す」ことが実は「布施」なんだと、道元さんはどうやら言いたいらしいのです。

次に<財のたからに任せらるるとき、財かならず布施となるなり>とあって、なるほど道元さんが言わんとする内容が少し明らかになってきました。

山のように積み上げられた財産があったとして、「自然の理法」に任せておけば、その財は財が少ないほうに、貧しい方へと自然と流れてゆくことになっているんだよとおっしゃるのです。
その自然な流れに「むさぼる」ことによって逆らわずに、その「自然な流れ道」に任せて、行かせることが出来るようになったら、それが「布施」なんだよと道元さんは言いたかったのですね。 

ちなみに、「むさぼる」の語源を調べてみると、「むさ」は「むさくるしい」の「むさ」で、「みにくいこと」、「きたないこと」です。そして、「ぼる」は「る」だそうです。
つまり、「むさぼる」とは、「財や法を我がものとして、醜く、汚い手段を用いて手元から流れ出さないように謀る」ことなのですね。

ここのところは「水のたとえ」でイメージすると分かりやすくなると思います。

水は水位の高い地点から低い地点に自然に流れ込みますね。これが「自然の理法」でしょう。

では、水位の高い状態を保とうとすれば(財を私物化しようとすれば)、どうすればいいのかというと、自分の周囲に囲いを設けて、水(財)が流れ出さないようにすればいいわけですね。

でも、それは「自然の理法」に逆らった無理な行為なので、結局はその「自我(エゴ)の囲い」が自分を息苦しくし、暗くし、重苦しくすることになってしまうわけです。

そして「自然の理法」に罰せられて、自分が低い水位の状態(欠乏している状態)に落ち込んだ時、当然自分の方に恵みの水が流入するはずが、「自我の囲い」を設けてしまっているので流入出来なくなってしまうのです。

道元さんが言いたかったのはそういうことだとすると、道元さんの次ぎの文章も納得出来ます。

<しかあれば知りぬ。自ら用いるも布施の一分なり。父母妻子に与ふるも布施なるべし>。

「布施」は、他の人に与えることだけではなくて、自分に必要なものを自分に供給するのも「布施」なんだよというのです。自分が生存し、仕事を通して世に貢献する。また妻子を養うのに必要な物資があれば、当然のこととして、世界から必要なものが家族に流入してくるわけです。

なぜならば、あなたが生き、家族が生きることが「大宇宙(神)」にとってどうしても必要なことであるから、当然のこと、必要な物品や財や霊的エネルギーが流入してくる。その流れに任せておけばいいのだとおっしゃるのです。

もちろん、あなたに財の流入があるということは、生存に関わるような貧困に遭遇している人にはさらに財が必要なわけで、そんな時は、あなたからツライ状態にある人への流れ出しが起こるかもしれませんね。

しかし、それはあなたがアタマで、ネバナラナイと判断して「布施」するのではなく、「自然の理法」が、あなたから、あるいは他の人や団体からツライ人や地域への「流れ道」を作られて、それで流出、流入が始まるのです。その流れ道をさえぎるようなことをしないで、「自然の理法」に身を任せてゆけばいいというのです。つまり「神流かんながら」ですね。

さらに、道元禅師は次のようにおっしゃっています。

<舟で人や物を運んだり、橋を設けて必要な人や場所に必要なモノが届くように努める仕事も「布施」だ。

また、どのような仕事であろうとも、「自然の理法」に従って、必要な人や場所に必要なモノが届くように努める仕事はすべて「布施」なんだ。

さらに、花が風に任せてヒラヒラ舞うのも、鳥が時が来て飛び立つのも「布施」の一コマなのだ>
 
あなたが今生存出来ているのも、刻々の霊的、物的流入(これが「布施」ですね)によるのだし、そんなあなたが仕事したり、坐禅したり、お経を称えたりすることによって、刻々の霊的、物的流出(これが「布施」ですね)をしているのです。

つまり、世界は互いに「布施しあう」ことによって維持存続しているのです。だから、<花が風に任せてヒラヒラ舞うのも、鳥が時が来て飛び立つのも、すべて「布施」の一コマ>なのです。

世界は互いに生かされ、生かしあって成り立っている。何と美しい世界の実相なんでしょう。

道元禅師の「布施」論を読んで、そんな美しくて有難い世界の真相が眼前にサーッと広がりました。道元さんはやっぱりスゴイ!

でも、まだ世界の戦乱は絶え間なく、「世界の真相」は現実化していませんね。

その原因は、貧しくなるのではないか、生存出来ないのではないかという「恐怖心」から「自我の囲い」で武装し、「自我の囲い」どうしが激突して財の争奪戦を繰り広げているわけです。

「自我の囲い」の内側に財を積み重ねておかなくても、「自然の理法」は、低いところに恵みの水が流れ込むように出来ている。必要な時に必要なモノが届くように出来ている。
だから「自我の囲い」にビクビク閉じこもっていないで、もっと楽に生きていいんだよ、という見本を、私たちの人生で世界に示してあげなければならないのです。

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