たっぷり坐禅

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信166号『イノチの充電』」の内容を再編集して掲載させていただいています。

Aさん(女性)からのお便りです。

坐禅は時々坐ってみることがあったものの、何だか分からないまま坐っていました。
自分や周りのあるがままの様子を意識的に眺めていたのですが、坐禅を修行として捉えていたので、坐禅が終わるとかえって疲れが増したりしていました。

でも、坐禅は<イノチの充電をする手段>だったのですね!
ああ、目が覚めたような思いです・・・!
消耗したところへ、充電することが大切なのですね・・・。

これまでの私は、消耗の一方だったような気がします。
これなら、楽しんで坐禅が出来そうです。早速今日からやって行きます

以下は、Aさんのお便りにたいする大敬の返事です。


『そうですよ、<坐禅はイノチの充電>なのですよ。

人は禅というものを誤解しているのです。なにかすごく厳しいもので、悟りというものは一般人には不可能なもので、身を削るような激しい修行の末に、一握りの人だけが達成できるものなんだという、そんな植え付けられたイメージに縛られているのです。

法華経のダイバダッタの章に、八歳の龍女りゅうにょが悟って仏になったという話がありましたね。ところが、智積ちしゃくという弟子が登場して、幼い竜女が仏になったということを認めないと言うのです。

仏になるには、生まれ変わり死に変わり、永い期間の難行苦行が必要で、そんな簡単に仏になれるはずがないというのです。

それに、仏になるためには、強い意志と強靭な体と高い知性が必要で、また家柄血筋も高貴でなければならない、それに女性は仏になれないんだ、などと主張するのです。

それなのに、竜女はまだ八歳でカラダも知性も備わっておらず、難行苦行などもちろん経験したことがなく、それに人より一段低いとされる畜生身である竜種族の一員で、しかも女性で・・・、そんなまったく資格がそろわない者が仏になれるはずがないと主張するのです。

しかし、法華経のドラマでは、その後いろんな展開があって、結局智積たちも、竜女が仏になったことを認め受け入れます。

長い年月の苦行の積み重ねの末に仏になれるんだ、難行苦行の延長線上に仏というゴールがあるんだという既成概念、思い込みが間違いであったということを認めます。

この法華経の「龍女成仏ドラマ」の詳しい内容の紹介と解説は『法華経講義-しあわせ通信第八集』(本心庵)の p.176~193をお読み下さい。

よく僧が道場で坐禅している光景がテレビなんかで紹介されますね。みんな口を「への字」にして、肩を怒らせて坐っていますね。

さて、次にガンダーラ美術の釈迦像を思い出して下さい。お釈迦様は口をへの字にして、坐っておられますか。静かに微笑んで、満たされた、たっぷりとした表情をして坐っておられますね。

どっちが本物なんでしょう。もちろんお分かりですね。

お釈迦様は、難行苦行されましたが、結局それでは悟りを開くことができず、ついに悟ることを断念されました。五人の道の友は「シャカは堕落した」と失望し、絶交して去って行ったそうです。

その時のシャカの「自分に対する深い絶望」と「限りない孤独」を思いやれば、我が事と思い合わせて、私は胸が痛く、涙が溢れそうになります。

ナイランジャナー川で沐浴して、これまでの心身の垢をすっかり落とされ、絶食でガリガリに痩せた体で岸辺に倒れておられたのですが、そこに通りかかったスジャータという娘さんが、見るに見かねてヨーグルトをプレゼントして、それを食べて少し体力が回復し、這うようにして菩提樹のもとにたどり着いて、静かに坐られたのでした。

その時の坐禅は、もう悟りを断念して坐られたのですから、悟りのために坐られたのではありませんね。

ただ、<イノチの叡智>がお釈迦様の心身を充電させるためには、今は坐ることが必要だと判断して坐禅を促し、その<イノチの叡智>の促しに、お釈迦様が素直に従って、何のためでもなく、ただ坐られたのです。

このように、何のためでもない、ただ坐る坐りを坐っていると、おのずとイノチが充電されてゆくのです。その充電されて、たっぷりとした充ち満ちたイノチが外に向かって溢れ出した時に、お釈迦様は本当の悟りを獲得されたのです。つまり、難行苦行の積み重ねの延長線上に悟りが得られるわけではないのです。

微笑みが出るような、満たされた実感があるような、そんな坐禅でなけりゃ、本物ではないのです。

あなた(Aさん)の場合でも、温泉に浸かってゆったりしたとき、宇宙に充ち満ちた『愛』を実感したという体験を書いておられましたね。

また、私の指導に感謝して喜びで一杯になられたとき、公案が解けたと書いておられましたね。

つまり、あなたの場合も、心身の緊張が解けて、イノチの充電が出来たときに、霊性の自覚があったり、公案が解けたりするのであって、難行苦行の、イノチの消耗の延長上に悟りや自覚があるわけではないのです。

私が若かった頃、禅の修行に心身が消耗しきってしまった時に、師匠は「もう坐禅はするな」とおっしゃいました。

「坐禅しないで(何かの目標のための坐禅はするなという意味、たとえば、悟るために坐禅する、公案を解くために坐禅するなどをやめよという意味)、ただ坐れ」とおっしゃったのです。

そして、とにかくアタマが過度にはたらく状態をやめることが大切だ。そのためには、まず『腕と手の緊張をやめることだ』とおっしゃいました。

腕や手の緊張が一番アタマを刺激して落ち着かなくするということが医学的にも分かっているのだそうです。

逆に、人が緊張しているか、イライラしたり、不安を抱いたりしていないかは、その人の手や腕に注目して観察しているとよく分かります。

坐る際は、伝統的には『法界定印ほっかいじょういん』の形に手を組むのですが、これは、お釈迦様が最終の悟りを得られたとき、自然にこういう手の組み方になっていたのです。

この形は法界(宇宙全体)を、両手をバスケットにしてそっくり収め、そこで憩わせ、安定させているという姿を象ったものです。

とても素晴らしい印なのですが、今のあなたは、その印にふさわしい状態でしょうか。

この印を手で組んで緊張がアタマに伝わりませんか。
普通は、緊張がアタマに伝わっていることさえ気が付かないほど心身の感覚が麻痺してしまっている人がほとんどです。

ですから、その当時、消耗しきった私に対して師匠は「坐る際に法界定印を組まないでいい。ただその時の一番楽な形でストンと足の上において置け」とおっしゃいました。

足は普通の坐禅の組み方でいいのです。背骨は普通立てて坐りますが、それも決めないで、こうでなければならないなどアタマでカラダに命令しないで、その時に一番楽な姿勢で坐ります。その安楽な姿勢が猫さんの背中のようであればそれもOKです。

しかし、坐禅中ずっと猫さんのままでいなさいというわけではありませんよ。イノチの充電が進んでくると、自然と背筋が伸びてきます。その方が楽になってくるのです。

目はつぶってもいいし、開けておくほうが楽に坐れるというのなら開けて坐ってもいいのです。楽なように、アタマに緊張がいかないように坐ればいいのです。

それから、アタマにはあれこれの思いができるだけ去来しないようにします。できるだけカラッポの状態になれるようにします。
そのためには、注意の目をアタマの内容にむけて、アタマに波風が立たないように観察します。

たとえば、息を吸い込むとき、新鮮な空気をアタマに吸い込んでリフレッシユするようなイメージ。それから、アタマのなかの重いもの、淀んだものを呼気とともに鼻や口から吐き出すような感じをイメージします。

もし、そんなイメージ法をアタマ主導でカラダに強制するようだと、逆にイノチが消耗してしまうので、そんな危険を感じた場合はイメージ法をストップして、ただ坐禅という姿勢に身を任せるだけにしてください。それで充分<イノチが充電>されます。

緊張を解くのに口から呼吸するのがいい気分の場合は口呼吸でもいいし、落ち着いてくれば鼻呼吸にもどしても、もちろんOKです。

何が何でも腹式呼吸で、ゆっくり呼吸をするべきという決め付けもおかしいのです。
胸にいっぱい空気を吸い込んでしばらく保持すると、カラダがシャキッとしますし、短い呼吸がピッタリというときもあります。要はイノチの本能が心身の充電のために必要だと要求する坐りをすればいいのです。 

私たちが現在送っている日常生活は<イノチの消耗>の連続です。そんな生命力が衰えてしまっている状態なのに、目をつり上げた、肩を怒らせた坐禅をして、さらにイノチを消耗させるのはいただけません。

そうではありませんね。坐禅は<イノチの充電>をするために坐ればいいのです。
ゆったりと、ゆうゆうと、ゆるゆると、おおらかに、おっとりと坐ればいいのです。
そうすれば、自然とイノチが充電されてゆきます。

自我をコップにたとえることにしましょう。

ここで説明したような坐禅(坐り)をあなたがされると、コップの「壁」が次第に低くなってゆくのです。それと同時に、<イノチの水>がどんどんコップに溜まっていって、ついに<イノチの水>が自分(コップ)の外側までにあふれ出します。

お釈迦様の場合は、溢れ出した<イノチの水>が、ついに宇宙全体まで届き、覆い尽くしてしまい、宇宙全体、生きとし生けるものたち全体が<我がイノチの領分>としてしまいました。

でも、私たちの場合は、とてもそこまでゆけませんね。少々あふれ出したというだけかも知れません。でも、それでOKなのです。

「充ち満ちて あふるるものが 道となり これを歩めと 伸びてゆくなり」という歌にありますように、あなたからあふれ出した<イノチの水>が、あなたの進むべき道を必ず示してくれ、後押ししてくれるようになります。

とにかく、ゆっくり、ゆったり、たっぷりとした坐禅をして、しっかり<イノチの充電>をしましょう。』

タイトルとURLをコピーしました