洗濯機

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信171号」の内容を再編集して掲載しています。

北九州の禅の会に参加されたIさん(女性)から頂いたお手紙の一部抜粋です。すてきなイラスト入りなのですが、残念ながらここでは文章のみの紹介とさせて頂きます。 

先日、4月13日(日)198回禅の会に初めて参加させていただきありがとうございました。5年程前の東京での講演会以来です。あの頃より先生は随分すっきりされていてきれいになられ驚きです(少し表現がおかしいですが事実です)(笑い)。

今回私は洗濯機の中の洗濯物気分でした。(仕事等に)「まき込まれる」という事をイメージしたらそういう感じでした。
そして洗濯が終わり、干すときにはピンピンになって干される。まき込まれる事が一段落すると、心さんがきれいになり軽やかになる。そうやって(運命を)好転することができると確心しました。 

目の前の事をただ精一杯やる。たったそれだけで自分が自分(である)場がつくれる(できる)。そうすることによって自分が一番落ち着ける場所へ(必ず)移動できると解釈しました。

今回の坐禅で気持ちが整頓できました(この文は帰りの新幹線で書きました)。


私はお話ししたり、文章を書いたりした内容をすぐ忘れてしまって、『記憶にございません』なのですが、皆さんにお配りしたプリントが残っていて、それによると、道元さんの『典座てんぞ教訓』をテキストにしてお話ししたようですね。

『典座』とは、禅の道場における食事係りのことです。何十人という修行僧たち(中国では千人をこえる修行者がいる禅道場もあったようですよ)の食事の調理を担当します。その仕事に専念しなければならないので、経典の研究をしたり、坐禅を長時間実践するということが出来ないのです。しかし、そういう下積みの仕事を厭わずに、誠実に勤め上げた方々が、多くの人たちに喜びの人生を与える禅師として大成されたという記録がたくさん残っています。長時間坐禅したから、経典を深く研究したから悟れるというものではないのです。

Iさんは、大敬さんがすっきりした、きれいになったとおっしゃって下さっていますが、それはきっと、教師という仕事、部長や管理職などの役割を面倒がらず、そこから逃げ出さず、自ら仕事という混沌(洗濯機)の渦の中に跳び込んで、ウロウロ、オドオド、ビクビクしながらも、そこでの課題に必死に取り組んで揉まれ揉まれてきたことによって、汚れが取れ、垢が落ちて、以前よりは真っ白な心に近づけたからなのでしょう(同じ仕事をしていても、反対にどんどん醜くなってゆく人もいます。それは、道を求める志の有り、無しで決まるのでしょうね)。

生長の家の谷口雅春先生は、若い頃、大本教で修行したり、教団の仕事をやったりしておられたのです。しかし、教理や教団のあり方に疑問を抱くようになって教団から出られました。しかし、まだ気持ちが中途半端だったんですね。世俗にも入って行けないし、大本に入った時に抱いていた聖なる幻想はもう崩壊してしまってナイのです。

それでも地上世界に生きる以上は食べてゆかねばなりません(もう結婚しておられたと思います)。それで、外資系の石油関係の会社に就職して、主に翻訳の仕事などをやっておられたそうです。しかし、自分には真理探求の使命があると頑なに思っておられるものですから、同僚とも交わらず、退社時間がくればすぐ帰宅して真理の本を研究したり、実習したりしておられたのです。それで、会社での人間関係もうまくいきませんでした。

ところが、ある時、自分は間違っていたと気づかれたのです。自分ひとりが悟っても意味がない。悟りとは『同時成道』といって、悟る時はみんな一緒(我も人もイヌもネコも、山も川も)に悟るのです。自分だけ悟ったなんていうのは思いあがり、妄想なのです。そのことに気づいたら、俗世での関わり、仕事や人間関係の面倒なしがらみを避けないで、 < 見事に巻き込まれてやろうじゃないか > という気持ちが生じてきたのです。

そうして、休憩時間に同僚と談笑したり、相談にのってあげたり、時間を割いて<巻き込まれる>ことを厭わないようにしたのです。それから、谷口先生の運命が好転しだしたのです。

これまで、道のために費やす時間以外は無駄な時間、極力減らすべき時間だと思っていたのが、そうではなくて、イノチとイノチが結ばれてゆく、とても貴重なひとときなんだと実感できるようになり、お道のために割ける時間(執筆活動を始めておられました)はこれまでより短時間にはなったけれど、充実した、集中した時間にすることが出来るようになり、その文章に共鳴してくださる人も増え、谷口先生を世に出そうとする人も現われ・・・。まさに、Iさんがお手紙で書いていらっしゃるように、 < 目の前の事をただ精一杯やる。たったそれだけで自分が自分である場がつくれる(できる)。そうすることによって自分が一番落ち着ける(自分が自分として一番輝ける)場所へ移動できる > ことになったのです。

この禅の会では、確か以下の公案も皆さんに紹介したと思います。
唐の時代の話です。三聖さんしょうという名の、当時の禅界では悟者として名を轟かせていた方がいて、武者修行のように全国の禅道場を訪問して、そこの道場主と禅問答してまわっていたのです。そして、雪峰せっぽうさんの道場にやって来ました。

三聖さんはたずねます。「網を透り抜けることが出来た金色に輝く魚は、いったい何を餌とするのか」
それに対して雪峰さんは「君が網を透り抜けてきたら、君に答えよう」と告げます。
三聖さんは、「やれやれ、千五百人の弟子を有する禅の師匠なのに、禅問答の仕方もご存知ない」とけなします。
雪峰さんは「老僧わしは、住職の仕事で忙しいからね」と答えます。(『碧巌録』第49則)

三聖さんは、自分がすでに自己制約の殻を打ち破って、もはや何物にも、どこにも居つく(執着する)ことなく、広い天地を自由に、思いのままに横行するんだと自身の悟りを誇っているのです。もはや、我を釣り上げることが出来る<餌>はないんだと言いたいのですね。

それに対して雪峰さんは『その境地はまだ本物の悟りではないんだよ』と知らせようとして「君が網を透り抜けてきたら、君に答えよう」と告げます。

分かりますか、実は雪峰さんは網の内側にいらっしゃるのです。そこから、三聖さんに「もう一度、網のなかに戻っておいで。網に巻き込まれてがんじがらめになってやろうと覚悟を決めたところが本当の(ひとついのちの)悟りなんだよ」と、三聖さんに教えたいのです。ですから、「老僧わしは、住職の仕事で忙しいからね」と暗示的に答えておられるのです。

千五百人もの弟子たちを指導する、また食事を欠かさず提供し、弟子たちが安心して修行に専念出来るよう生活を保障するという仕事はいかに大変なものか想像出来ますね。おそらく、雪峰さんはそれらの仕事に見事に巻き込まれて、自分のための時間なんていう隙間は全くない状態で過ごされていたのでしょうね。そういうがんじがらめで自分というものがない人生を、何の疑念もなく、淡々と、喜びを持って送ることが出来ますか。そうなれたところが本物の悟りなのです。

雪峰さんは行脚あんぎゃの際は、大きなしゃもじを背負って歩かれ、滞在されたどの道場でも、自ら典座の仕事を志願されたそうです。そういう人が嫌がる、日の目を見ない縁の下の仕事を引き受けることによって、大きく『徳』を積まれることになったのですね。ですから千五百人もの弟子が集まり、雲門、玄沙、翠巌、鏡清、太原、保福、長慶など、禅界に大きな功績を残した多くの禅者を育て上げることができたのです。それに対して、三聖さんが法を伝えた弟子がいたという記録は残っていません。

雪峰さん、三聖さん、それぞれの個性の人生を生きられたわけですから、合格、不合格ということはないのですが、私たちは、雪峰さんの人生を指標にしたいですね。

私は若いうちは自分のことばかりにかまけて(一つのことに心を取られて、他がおろそかになること)しまって、他者との関わりの中で徳を積むという経験が不十分でした。ですから、多くの迷える人々をしっかり抱きしめ、育むための力量が不足しています。若い皆さんはそうならないように、人が嫌がる、下積みの仕事は率先して引き受け、しっかり徳を積み上げて、懐の深い大人物に成長して下さい。

私の若い頃のあやまちにあなたがたも落ち入るということがありませんように。自分だけの悟りなんて存在しません。世界に一人でも泣いている人がいたら、あなたは悟っていないのです。あなたはその人であり、その人はあなたなんですから。

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