師を超えて行け

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信194号」の内容を再編集して掲載しています。

「福岡の禅の会のクラスノート」に、Tさん(女性)がこんな話を書いておられました。

Tさん
Tさん

行きつけの整体院に行った時、そこの整体師さんが、「Tさん、今日は身体がピタリと収まるところに収まって、狂いがまったくないですよ。どこか治療に行かれましたか、何か体操のようなことをされましたか?」と訊いてきました。

「ええと、どこにも治療にいっていないし、何も体操はやっていませんけれど…。そういえば昨日、禅の会に行って、立花大敬先生という方のお話しを聞いてきましたね、それなのかな?」

整体師さんは、「ああ、努力して整えたというのではないのですね。『その会の場』がTさんにピッタリだったんですね。そんな『場』を持っておられてうらやましいなあ」と言っていました。

そういう、「温めてくれ、ゆるめてくれ、ほどいてくれ、ゆるしてくれ、そして身も心も本来の収まりどころに復帰させてくれる『場』」が、ここ(禅の会)にはあるのですね。

そういう『ゆ()の場』を、大敬と長らく続いて参加して下さっている皆さんで、20数年かけてじっくり熟成させてきたということですね。

ゆっくり・ゆったり・ゆ(湯)につかり
たゆたうおゆに・みをゆだね
こころ(心)もみ(身)をも・ゆるくして
じぶんをゆるし・ひとゆるし
われ(我)ひと(人)ともにいゆる(癒ゆる)道

身も心も、ガチガチに固まって苦しくなってきたら、ぜひ「大敬温泉(禅の会)」に浸かりに来て下さい。

来れない時は、上の詩を繰り返し音読して下さい。「『ゆ』のコトダマ」が、あなたをゆるめ、ほどいて、楽にしてくれるはずです。


また、禅の会のクラスノートから。これは、若い女性のOさんが書かれたものです。

Oさん
Oさん

こんにちは 大敬先生へ

私をどんどん どんどん ゆるめて下さい。

自己否定や全てマイナスに考えるクセ、本音が言えない。
自己肯定したい。全てが上手くいっている。本音が言える。

ゆるゆるになりたいなあ。素直に人に、男の人に甘えたいなあ…。

○○歳生きている。消えたいと思ってずっと生きて来た。そう思うと、そういう現実になった。

でも、消える事に勇気もなかった。なら、生きるしかないなと思ってから、生きる道が出来た。

生きる道を選んだなら、心を変えたかった。その心を。

先生に出会ってからは、楽になりました。

初めは、言ってる事が分からず、途中でやめました。
それから、又、感じてみたくて、足を運びました。
少しずつ、分かって来たのかなぁー。お家では、先生のCDを流してて、生きるヒントを頂いています。

一年前迄は、気づかなかった事書きます


私は美人でした。スタイルも良いです。魅力的です。モテます。仕事も出来ます。良い女です。

もっと、自分を素直に受け入れて行きたいです。誉められたら笑顔でありがとう(ニコッ)といえる女性に…。

先生にお会いした日は、テンション上がってて、ココロが軽く、喜んでます!!
また、一年後、変化してる自分が楽しみになりました。

立花大敬先生のパワーはスゴイなぁ。

そして、「自己肯定」と「許す」事のお話をお聞きしたいです。宜しくお願い致します。

立花大敬 2年生より 感謝を込めて ありがとうございます×∞

最近、若い女性の間で、「大敬先生はゆるいよ、ゆるゆるよ」と評判になっているらしいのですが、その理由が、Oさんの文章で納得出来ました。

「ガチガチ」に固まってしまって苦しくなっている若い人が多くて、みんなその「ガチガチ」から卒業して、温かく柔軟に、自由に生きたいのですね。


同じく、「禅の会のクラスノート」から、これはKさん(男性)が書かれた文章です。
福岡から京都の禅の会に参加されて、その際に手渡して下さったクラスノートの中の文章です。

Kさん
Kさん

大敬先生 いつもありがとうございます、Kです。
今日は、この後、京都の禅の会に参加させて頂きます。

最近は、大敬先生がはじめに出された4冊の本(『天界の禅者大いに語る』、『悟』、『禅』、『禅の達人たち』、以上潮文社)の2回目を読んでおります。


禅の会の後、『悟』を読みはじめました。
以前読んだときは、よくわからず、ただ目で追っていました。

今回、前書きの「はじめに」のところから、大敬先生の「音読」という言葉がひっかかりました。

大敬先生は、何度も何度も正法眼蔵を「音読」されたんだと思い、私も、これから大敬先生の本はずっと「音読」して読もうと決めました。

すると不思議です。音読して読んでいくと、どんどん入っていく感じがするのです。

自分が読んでいるけど、自分でない。
音読した声を耳で聴くのですが、
自分が聴いているけど、自分でない
そんな感じがするのです。

音読もなぜかあまりつっかからないのです。難しい文なのに。
何か、読んでいるけれど、読まされているような・・・。

そういえば、延命十句観音経も、そのようなときがあります。
自分が唱えているのに自分が聴いていない。

特に大宰府天満宮に行くとき、行っているときと、帰るときは、ずっと唱えているのですが、そんな感じです。

これが「全体生命」というものなのかなあ、そんな気がしました。

大敬先生が「音読」と書かれているのも、それ、自分=全体生命 というのが分かるから、メッセージとして書かれているのかなあ、なんて思いました。

さあ、今から京都の禅の会です。
大敬先生、どうぞよろしくお願いします。

このKさんの文章に、私は赤ペンで感想を書いています。それも紹介しておきましょう。

自分が聴いていないから、本当の音が聴けるのです(「囲いの自分」が消えて、「囲いがない全体の自分」が聴いている)。
これは「見性けんしょう体験」ですね。おめでとう。
こういう体験を何度も繰り返しながら、いのちを深めてゆくのです。

Kさんは「音」から、「耳」から悟りに入るタイプのようです。
観音さまもそんな人だったのですよ。「音」を聴くのでなく、「音」を「観る」のです。

今度は、モノの「音」を聴きましょう。
片手を差し上げて、ジッと見て、「手」はどんな「音」で鳴り響いているのか、しっかり聴いてみましょう。


次は、Tさん(男性)の文章を紹介します。

Tさん
Tさん

「病気中の実験について」


7月の楽しい禅の会から8月の今日まで、熱や体が痛いなどの症状が続いていました。直ったと思ったら、また悪くなる日々でした(どうも、大人のリンゴ病とのことでした)。

その間、せっかくなので学んだ事を実験しようと思いました。

(実験1)まず、病気といえば黒住さんだと思い、笑おうと思い、フトンの中で、コメディ(Mr.ビーン)を観ました。

少し無理があった様で、体がますますキツクなり、やめました。

(実験2)次に、形(病気の状態)は、ともかくも、心をサッパリさせよう。そうすれば、心→形だから直るだろうと思いましたが、形(頭痛、熱)に引きずられ上手くいきません。

しまいには、「何でオレがこんな目に会うんだ」、「神さまに、ちゃんと『健康で神さまのお役に立てる仕事をさせて下さい』と祈っているのに、神さまは何をやっているんだ」と思う始末です(はずかしいですが…)。

(実験3)結局、上記の方法はあきらめ、大敬先生が言われている様に、この状態(病気)は、「現成公案げんじょうこうあん」なんだ。自分の頭では分からないけど、色々な因果を含め、この状態がボクにはベストなんだと思い、全てを受け入れました(あきらめも入っていました)。

フトンの中で「現成公案」を称え、仕事中も「現成公案」と称え(マスクをしているので変な人とは思われません)、しばらくすると、体調が上向いてきました。

そうすると、ここまで頑張ってくれている「体」が愛しくなってきて、フトンの中で、「体」の一部、一部に「ごめんね、当たり前と思って、ふだんこき使って。ありがとうね」と呼びかけながら、さすりました。

何か「体」の細胞さんが受け入れてくれた感じがして、ますます「体」が楽になりました。

そのうえで、こんな情けない、病弱な自分を「認め、受け入れ、許し、抱きしめ、愛し」てあげると、何かホンワカとした気持ちで体中が満たされました。

熱が下がり、体調が良くなりました。

最初にとった方法(実験1と2)は、どーも、この病気から逃げたい、逃げたいと、「嫌よ嫌よのキツネさん」になっていた気がします。

この期間中、支えになっていたのは、先生の話して下さった、維摩経ゆいまきょうの「世界が病んでいるから、自分も病んでいる」という話であったり、キリストの盲目の人に言われた話(「君が盲目なのは、君を通して神の栄光が輝き出すためなんだ」)であったり、自分の中で、「病気になったって悪いことじゃないんだ。自分を責める必要はないんだ」と思えたことです。大変感謝します。

「現成公案」は、道元さんの言葉で、今・ココで私たちが体験している出来事(現成)は、自分の知力ではとても全体が見通せないけれど、きっと大宇宙全体(公)にとって、最善・最適なあり方(案)をしているんだと信じて、そこから逃げ出さず、拒否せず、そのまま受け入れることなのです。

そして、その「現成の受容」からスタートして行動すれば、その行動は、必ず「公案現成」となる。

つまり、大宇宙の進化にとって、今・ココで自分に出来る最善・最適な貢献が出来る行動となるんだ(そのことは、自分の頭では分からないけれど、きっとそうなんだと、なぜか確信できるのです)という意味の言葉です。

前半の「そのまま受容」の過程が「現成が→公案なり」で、後半の「受容から行動へ」の過程が「公案が→現成する」なのです。

私は、イライラしたり、腹立たしいような出来事に出会ったら、心の中で、「現成公案・現成公案・現成公案…」と繰り返し称えます。そうすれば、心が落ち着いて、事態に適切に行動できるようになるのです。

『青い象のことだけは考えないで!』というタイトルの本が書店に並んでいました。

「青い象」のことは考えないようにしよう、考えないようにしようとすれば、ますます「青い象」のイメージが心の中で鮮明になってきますね。

このように、Tさんの初めの二つの実験は、実験そのものに効果がないというのではなくて、「はやく病気(青い象)から回復したい、したい」というアセリの思いが、青い象(病気)をますます鮮明に心に刻むことになってしまったのですね。それで「病気の現実化」が継続してしまったのですね。

「嫌よ嫌よのキツネさん」の説明もしておきましょう。

昔中国に、百丈禅師という方がいて、坐禅しておられると、そこに野ギツネが現れてこう言ったというのです。

「私は実は遠い過去世では人で、この場所にその当時も道場があり、そこの指導者をしていました。

ところが、弟子に誤った指導をしたので、畜生界に堕ち、キツネになってしまいました。

その世界から早く脱出したい、免れたいと、色んな行を工夫・実践してきましたが、どうしても脱出できず、ついに五百生、生まれ変わりましたが、未だにキツネのままです。私はどうすれば人間界に復帰出来るのでしょうか」
 
百丈さんは言いました。「宇宙を貫く因果の法則には、決して間違いがない。今の君は決してキツネから脱出できないよ」

その百丈さんのコトバを聞いて、キツネさんはようやく、一日もはやくキツネの身から脱出したいという「アセリと逃げの態度」をやめ、キツネという「現成公案」を受け入れ、キツネの身に落ち着くことが出来ました。

このように、キツネであることを受け入れた瞬間に、キツネから脱出することができたのです。

「現成公案(現実を否定せず、受け入れる)」したから、「公案現成(宇宙の意志が働いて、そういう心境に変化したキツネさんに一番ふさわしい位置へと導いてくれる)」へと転身出来たのですね。


以上、「禅の会のクラスノート」より、4名の方の手記を紹介しました。

禅の会がスタートした当初は、とても私の境地を深いところまで理解したり、体験出来たりする人が出てくるはずがないと、淋しかったり、孤独感があったりしましたが、どうやらその心配や孤独は不要であったようです。

皆さん、順当に育って下さっていて、私が「体験」をした45歳前後までには、きっと私をはるかに超えたところまで進んで下さるでしょう。また、そうでなければ、人類の前途に希望はありませんね。

個人の疑問や悩みを解決するために学んでいるのではなく、その疑問や悩みは、実は、人類全体の「疑問」、「悩み」でもあって、私は人類を代表して、この「疑問」を持ち、この「悩み」を抱えているのだということを忘れないようにしましょう(「維摩経」の「衆生病む故に我病む」ですね)。

私が、高校3年生の物理の授業を担当する時は、生徒達にこう言います。
「いつまでも、ボクを超えられないというんでは困るんだよ。
だいたい、君たちが順当に育ってくれたら、秋のはじめ頃には、もうボクなんか超えて、もっと物理の理解が深く、広くなってくれているはずなんだよ。
そうならなければ、東大・京大や、医学部なんて合格出来るはずがないんだからね」

私たちは、難関大や医学部の合格どころではない。
人類の魂の進化の合格達成を目指すのですから、学ぶべき、やるべきことは沢山ありますね。

先を遠いので、あせらなくていいけれど、着実に一歩ずつ前進しましょう。

苦しい時は、強がらずに、仲間に頼ってもいいんですよ。そのための「禅の会の仲間・しあわせ通信の仲間」なんですから。

タイトルとURLをコピーしました