坐禅とは?

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信210号」の内容を再編集して掲載しています。

先日の禅の会では、坐禅についてお話しました。

「どうして坐禅されているのですか?」と聞かれれば、「坐禅すれば『楽』になるからですよ」と答えます。

その「楽」は、「身の楽」と「心の楽」の両方です。

なぜ坐禅すれば「楽」になれるのかといえば、坐禅すれば、身と心が「ほどける」からです。

お風呂に入ったり、体操したりしても、身心をほどくことができます。それは、外側(体)から内側(心)に進んでゆく「ほどき」です。

坐禅の「ほどき」は、いのちの一番内奥部から始まって、心をほどき、さらに体をほどくという具合に、内側から外側へ外側へと浸透してゆきます。

体や心が苦しいのは、「固まり」があるからです。その「固まり」が、「気」の順調な循環を妨げているのです。
坐禅すれば、身心が「ほどけ」て、全身心に「気」がくまなく行き渡るようになるので、「楽」になるのです。

ところで、「私」というものも、実は「気」の順調な流れを妨げる「固まり」のうちの一つです。
坐禅を長らく続けてゆけば、やがて「私」という「固まり」も、少しずつ「ほどけ」てゆきます。

「私」という「固まり」が「ほどけ」れば、何と「楽」に生きられるんだろうと実感出来るようになります。
「私」という「固まり」がいかに自分を不自由にし、苦しめてきたかが分かるようになります。
「私なし」の状態の安楽さに気がつけば、少しずつ「私」を手放して生きられるようになります。

「私なし」の生活が出来始めると、なぜかシンクロニシティ(「こうしたいなあ」と思うことがすぐ実現する現象)が頻発するようになります。また、セレンディピティ(思いがけぬハッピーハプニングが起こる現象)が次々起こるようになります。

なぜそうなるのかというと、「私」という「固まり」が「ほどけ」れば、あなたは世界と一体となるからです。
あなたの『こうしたいなあ』という思いは世界に瞬時に伝わり、その思いの実現のために、世界中が協力してくれるようになるのです。これがシンクロニシティがよく起こるようになる理由です。

「私なし」になったあなたは、他の人や世界のしあわせのために、力まず自然に、無理無駄なく働けるようになるので、その世界に対して「善意と愛を差し出す手」が、ユーターンしてあなたに帰ってきて、世界から「愛と善意を受け取る手」となって、セレンディピティ現象となるのです。

坐禅すれば、いのちの内奥からスタートして、心をほどき、体をほどき、私をほどき、ついには「世界をほどく」働きをするようになります。

「悟り」は「差取り」です。
「私」という「固まり」があると、内(私)と外(世界)の間に仕切り(境界)ができます。
その仕切りがあなたを不自由にし、息苦しくし、暗闇に閉じ込めるのです。
その「私」の「固まり」が「ほどけ」ると、あなたは開放されて世界と一体となり、あなたと世界は「いきとおし」となります。

「いきとおし」とは、「とおし」です。世界と一体となり、「いのちがひとつ」となるのです。
過去・現在・未来の時間と一体となり、あなたのいのちは「永遠」となるのです。

また、「いきとおし」です。閉じ込められて淀んだ空気を吸って息苦しくなっていたのが、牢獄から解放されて、世界中の新鮮な空気を、好きなだけ思う存分呼吸出来るようになったのです。

また、「とおし」です。あなたの意識を自由に世界中に移動させることが出来るようになります。自分の思いが、どんなに離れている人にも伝わり、人の思いを瞬時に思いやることが出来るようになるのです。

そのように「いきとおし」になったのが「悟り(自他の差取り)」です。完成に近いほど「ほどけ」て「いきとおし」になった人が「ほとけ(仏)」様です。

しかし、仏様といえど、完成に近いというだけで、まだ「ほどけ」を完成されたんだとはいえません。
なぜなら、あなたもわたしも、まだ心や体にいっぱい「固まり」が残っています。「いのちはひとつ」なんですから、あなたやわたしの「固まり」は、実は仏様の「固まり」でもあるからです。
ですから、仏様やイエス様は、世界中のすべてのいのちたちが「ほどけ」過程を完成させるまで、「ほどけ」の業を続けてゆかれます。
 
あなたが坐禅すれば、そんな仏様の「ほどき事業」に協力することになり、また世界中の人の苦しみの「固まり」を少しでも「ほどく」という徳を積むことになります。
ですから、坐禅は何もしないで、ただ坐っているだけですけれど、その功徳はとても大きいのです。

道元禅師が「坐禅の功徳」を説いておられる文章を意訳してみました。
坐禅を始める前に、この文章を音読してくだされば、坐禅がやれるありがたさを、しみじみ納得出来、功徳が大きな、いい坐禅が出来ると思います。

道元禅師『弁道話べんどうわ』意訳

「たとえ、あなたがわずかな時間であっても、<坐禅印>を組んで坐ると、世界中(すべての空間と過去・現在・未来の時間のすべて)が、その<坐禅印>のうちにスッポリおさまる。

そうすると、過去・現在・未来において、あらゆる場所で活動しておられるすべての仏や菩薩たちに霊的な力をお供えすることになり、その救済活動を助けるという功徳をあなたは積むことが出来る。
また、苦悩する人たちに立ち直るための力を足し与えるという徳も積むことになる。

そうすると、『徳は孤ならず』というコトバがあるように、それらの功徳はユーターンしてあなた自身に帰ってくる。

身と心のゴタゴタがなくなってスッキリし、生きるための活力が回復し、その時期が来ている人は、その人にふさわしいレベルの悟りを得ることが出来、最終的には自他一体(ひとついのち)の悟りをも獲得することが出来る。

そのように、あなたの身と心がクリアーになると、さらにその解放の喜びと悟りの自覚が世界中を覆いつくし、すべての存在を光明で包み込み、輝かせることになる。

しかし、この功徳は全時間と全空間に及ぶ無限の功徳であるがゆえに、あなたの頭脳は、その限りない功徳をすべて認識することはできない。ただ、あなたの身と心がその功徳の一部を直感的に捉えて歓喜し、閉ざされた重苦しい境地から解放されたと実感するだけである。

すべてを認識できないからといって、それが存在しないなどと言ってはならない。
ただ、仏の教えに誤りがあるはずがないと信じて、ひたすら坐禅を実践してゆきなさい。

坐禅の功徳は、坐禅している間だけあるというものではない。
坐禅している時は、鐘をたたいて音が鳴っているようなもの。しかし、あなたが坐禅すれば、鐘が鳴る前の過去にもその妙音が鳴り響いており、鐘の音が止んだ後でも、その妙なるひびきが綿々と続き、絶えることがない。

その徳は、無限の時間と空間に及ぶものであるがゆえに、あなたが坐禅していないときも、その坐禅の功徳は必ずあなたの過去を変え、現在を変え、未来を変えてしあわせな人生へと導き、生きがい、やりがいのある人生への歩みを促してくれるようになるのだ」

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