薬は悪者ですか?

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信164号」の内容を再編集して掲載しています。

Aさん(男性)、お元気ですか。
ご質問のお便り届きました。さいわい夏休み中(教員だった頃の文章です)ですので、ご返事することが出来ます。

何だか生き生き、のびのび生きていないような気がする。心に充実感がないということですね。

そういう時もありますね。私にも、もちろんそういう時があります。

そういう時もありますが、それがAさんには悩みの種になるけれども、私は『そういう時もあるさ』と割り切れて、自己否定まで到らないというだけの違いのように思います。

Aさんは、自分で思っている以上にガンバリ屋さんで、完ぺき主義者なんですよ。だから、人にも自分にも厳しくなってしまうのです。

私は、気が小さいわりには大ざっぱで、全体として辻褄つじつまがあっていれば、細かいところで、抜けたところがあっても『まあ、いいや』とスルーしてしまうことがあります。
それで、生徒に『アバウト』というあだ名を付けられたこともありました。

まあ、この程度のいいかげんさでやってゆかなければ、結構面倒な部長や管理職を十年間もやってこれなかったでしょうね。
精神的にはこまい男なので、完璧であろうとして、細部にばかり心を奪われていたら、とっくの昔につぶれてしまっていたでしょう。

アバウトな人間がアバウトに生きるのは難しくないでしょうが、Aさんや私のように、繊細な感受性の持ち主がアバウトに生きるのは結構大変なのかも知れません。

その辺のところ、私はどのように対処してきたのか、記憶をたどって、思い浮かぶままに綴ってみたいと思います。

私は生活に息切れしてきたり、つらくなってきたら坐禅します。

アレコレの思いの堂々めぐりを断ち切ろうとするのではなく、それを相手にしないで、ただ坐相を正しくして、体のどこかに、気が付いた緊張やかたよりがあれば、できるだけそれらの不調和をほどこうとします。心にある思いの固まりが、体の緊張や偏りなどを生じさせているのですからね。

坐禅していて、たとえば首すじが凝っていることに気が付いたら、首の体操をくりかえします。回数を気にせず、気のすむまで何十回でもやり続けてもいいのです。

それでも、なかなかほぐれてくれないかも知れません。
心に不調和の原因があって、体に現われている症状は、その結果なのですから、根本的には心が変わらねばスッキリしません。

しかし、心を正常にもどそうとしても、心を自分の力で加工しようとしても、それはうまくいきません。
なぜならば、頭は個人のものですが、心はすべてのイノチの共有物なのだからです。

ですから、心の方が頭よりよっぽど大きいのです。
心をゾウさんでたとえれば、頭はノミさんぐらいのものです。
ノミさんがゾウさんをつかまえて(しがみついて?)、「このゾウ(心)はボクのものだ、ボクの所有物だ」と主張したらおかしいでしょう。

達磨だるまさんのもとに慧可えかという若者がやって来たのです。この慧可えかはのち後に達磨さんのあとを継いで二祖にそ(中国で二代目の禅師)となった方です。

慧可えかが質問します。
「私の心は不安でいっぱいで動揺がやみません、師よ、どうか私を安心させて下さい」
達磨さんが言います。
「心を持って来なさい。そうすれば、安心させてあげよう」
数日後、慧可が達磨さんのところにやって来て言います。
「心を求めましたが、ついにとらえて持参することが出来ませんでした」(原文は『しん不可得ふかとく』とある。心を獲得することが不可能だという意味)。
達磨さんは言います。
「さあ、君のために安心させてあげたよ」(無門関第41則)

心はイライラしたり、クヨクヨしたり、ピリピリしたり、ふさいだり、うわついたり…、まったくキリがありません。

しかし、その心は宇宙いっぱいのもので、すべてのイノチたちと共有、共用しているものなのですから、その心の絶えることがない波(動揺)は、個人持ちのものではないのです。

いわば、宇宙全体の因果関係の合計が、只今あなたが体験しておられる心の波となっているのです。
それは、宇宙発の波なのですから、それをあなたの頭(ノミさん)の力でコントロールして治めてしまおうとしても、それは土台無理なお話なのです。

あなたに出来ることは、心の「ゾウさ」を認め、頭の「ノミさ」加減を素直に認めることだけなのです。
そうすれば、あなたは心の動揺の波に逆らって、ますます心の波を激しくしてしまう悪循環から解放されます。

波を何とかしようと、それに逆らっていると苦しいのですが、心の波を『そんなものだ、そんな時もある』と受け入れ、認めてしまい、無駄な抵抗をやめると、あなたは自然と浮上して、波の上の浮子うきのようになります。
波に逆らわず、波に乗ってしまうと、もう波はないのです。

そんな浮子うきのような柔軟さをもてるようになれば、心の荒波も次第におさまってきます。
私はそんな柔軟さを身に付けるために坐禅しているのです。決して、心をコントロールするために坐禅しているのではありません。

結局のところ、まず宇宙発の波が来たとして、それを嫌って逆らうことによって、自分発の二次の波、三次の波を、そのはじめの宇宙発の波に加えてしまうことによって、ますます波を激しくしていたのです。

それに、心の水面は本来水平なのです。風が吹くから波立つのですが、風がやめば、本来の水平面におのずと戻ります。そのように出来ているのです。
心が波立ったのを嫌って水平に戻そうと、頭の風を送り込めば、収まるどころか、ますます波がきつくなってしまいます。

心に対する手出しをやめて、ただ坐禅していると、すこしずつ波が収まって(収まるように出来ているのです)、おのずと安定な水平に近づき、安心出来るようになります。
また、波立っても、そのうち水平にもどるさと、安心して浮子うきさんをしておられます。

もちろん、生きている以上は宇宙全体とイノチを共有しており、宇宙発の波は絶え間なく入ってきて、心は波立つのですが、それでもそのままで安心しておられるようになるのです。

波に逆らわず、波を受け入れ、認め、抵抗をやめると、緊張がほどけて自然に浮上し、波のまにまに浮くことができるのでした。
波と一緒に上下すれば、もう波はないのです。

さて、そうなってくると、面白いことが起こります。
今度は、心の波があなたを運んでくれるのです。

あなたが生きがいをもって、活き活き働ける位置まで届けてくれるようになるのです。
頭のノミさんが無駄な抵抗をやめて、心のゾウさんを操縦しようなんていう無謀なくわだてをやめて、心のゾウさんの頭の上でおとなしく坐禅していると、いつの間にか、しあわせの国に到着しているのです。

さて、Aさんにはもう一つの質問がありましたね。

以前、精神的につらくなって薬を処方してもらって服用していたことがありました。
ところが、ここ数年は回復して薬を飲まなくなっていたのでしたが、最近、心の動揺がぶりかえして、再び薬が必要になってしまいました。依存症になってしまわないか心配です。
こういう質問でしたね。

薬は悪者なんですか?

そうではないですね。薬は人の病気を治しなさいと神さまがプレゼントして下さった賜物たまものですね。

Aさんの、とりあえず今のところの天命(天から与えられた役割)は何でしょうか?

それは、和気藹々わきあいあいとした家族をつくること、子供を素晴らしい人に育てること、職場でいい人間関係を築き、適切な働きが出来ることですね。

そのためには、不機嫌な顔で周囲の人たちを不愉快にしたり、暗くよどんだ雰囲気にしてはいけません。

私なら、縁ある方々の心の傷を癒し、元気づけ、勇気づけることが出来るなら、何の力でも借ります。たとえ、それで私自身がつぶれたとしても、それでいいという覚悟は持っています(本当はそうならないということを心の奥底で知っているのですが…)。

Aさんがご自身の天命を果たすために只今のところ、薬が必要であるというならば、『神さまありがとうございます。おかげで皆に笑顔で接することが出来ます』と、感謝して頂けばいいじゃないですか。

雲門うんもん禅師は、「尽大地じんだいち(世界中のすべてのモノやコト)が薬である。
さてそうすると、自己はどこにあるのか」と弟子達に問題を出しています。(碧巌録第八十七則)

食事も薬です。乗物も薬です。薬ももちろん薬です。縁ある人々や家族や職場や…、そのことごとくがAさんに与えられる薬です。

それらの薬を服用しなければ、Aさんは一刻たりとも生きることは出来ないのです。
それらの薬を頂くことによって、それらに全依存することによって、Aさんは生きているのです。
毛筋の先ほども、それらに頼ることのない、独立した自己などというものはナイのです。どの自己が依存症になるのではと心配するのでしょう。

そういう全依存の自分であるということを素直に認め、強がらずに、弱い人間であるということを受け入れ、それでもそのような薬を服用することによって、何とか笑顔で家族と接し、自分自身が子ども達にしあわせを与えるための『薬』となれている。そんな神さまがプレゼントして下さった奇跡を感謝して生きてゆきましょう。

<イヤだ、イヤだは好きなのよ>と、私はよくお話ししますね。
薬がイヤだ、イヤだと悪者にしていたら、いつまでも薬さんから離れられなくなってしまいます。
薬さんに感謝し、薬さんを与えて下さった神さまに感謝して服用していると、いつの間にか薬さんは去ってゆくでしょう。

私はAさんの笑顔が大好きです。私だけではなく、Aさんに縁のある多くの人たちもきっとそうだと思います。Aさんの笑顔に、沢山の人が心を癒されていらっしゃるでしょう。

このように、心が病んでも、薬を飲んでいても、人をしあわせに出来るのです。何とすばらしいことではありませんか。

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