本記事は「しあわせ通信188号」の内容を再編集して掲載しています。
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法演さんは、悟り(大乗の)の境地もしっかりしていて、同時に教育者としても優れた方であったようです。
『無門関』には、法演さんが創作された公案(禅の問題)が4題も収録されています。
白隠さんは「八難透」といって、解くことが最も難しい公案8題を選んでおられますが、そのうちの2題は法演さんが創作された公案です。
ここでは、『無門関』に収録されている法演さんの4つの公案を紹介して、解説しておきます。
五祖法演禅師が弟子たちに質問した。「倩女が離魂した。いったいどちらの倩女が本物なのか」
この公案は、白隠さんの「八難透」に入っている公案です。
これは当時の伝奇小説をネタに創作された公案で、倩女の魂が二つに分離して、それぞれ別の人生を生きたという話です。
一方の倩女は相愛の男性と駆け落ちして子供も生まれたという人生。
そして、もう一方の倩女は、相愛の男性と別れねばならなくなり、その心の傷が原因で重い病気になって、長年の間病床にいるという人生。
そんな二人の倩女の魂が最後には合流して,またもとの一人の倩女に戻りましたというストーリーの小説です。
もうお分かりですね。これは「金平糖大作戦」という人類の魂の進化モデルと同じ構造(「一」→「多」→「一」)の物語で、法演さんはその「魂の進化論」を洞察しておられたということが分かりますね。
この小説をもとにして、「さて、どちらの倩女が本物なのか」と法演さんは弟子たちに問いかけています。
もちろん、駆け落ちの倩女、病床の倩女、どちらの人生も本物です。
いずれもが、その場合の倩女にしか歩めない貴い人生なのです。
この人生が成功で、こちらは失敗だということはなく、こちらが上等、こちらが下等の人生ということもありません。
大統領になる人生も、路傍で寝なければならない人の人生も、まったく等同の価値を持った貴重な、大切な人生なのです。
なぜ、そう言い切れるのでしょうか。
それは、いのちはひとつしかないからです。
その「ひとついのち」が、さまざまな状況を設定して、個のいのちたちを生み出してそこに置き、その状況下での人生を歩ませているのです。
そして、そういう無数の個のいのちたちの刻々の経験を「ひとついのち」は、「我が事」として経験し、それらを総合して、自らの進化向上の推進力としているのです。
どの場合の、どの「個の人生」の経験が欠けても、「ひとついのち」の進化はうまく運ばないのです。
どの人の、どの人生も、だから尊い、有難い、平等の価値あるものなのです。
ですから、安心して、自分の場合の、「個の人生」を生きたらいいのです。泣いてもいい、わめいてもいい、ありのままの自分の人生を生ききったら、それでいいのです。
他の状況のもとで営まれる他の個の人生は、またその他の人が精一杯生きてくれているのですからね。
そして、その他の人も、実は別の状況を体験している自分自身なんですからね。
本当の自分とは、実は「ひとついのちの本体」なのですからね。
だから、このたびの人生では、自分は安心して、この場合の自分を自分していればいいのです。
そして、これは遠い先のことになりますが、全ての時代の、すべての「個のいのち」の経験と学びを人類の魂が統合できた時、すべての「個のいのち」が融合して、また「ひとついのち」に復帰するのです。
スタートした時の「ひとついのち」より、大きく成長した「ひとついのち」となって…。倩女の魂が最後はまた一つに戻ったように。
五祖法演禅師が弟子たちに質問した。「路で達道の人に出会ったならば、語黙(語るか沈黙を保つか)のいずれで応対してもいけない。
ではいったい何をもって対応したらいいのか」
「こんにちわー」、「お早うございます」、「やあ、ゲンキー」と応対すればいいのです。
その声かけの瞬間、「ひとついのち」の真理が地上に誕生します。なんと素晴らしいことでしょう。
その「コンニチワー」の今、<語だ、いや黙だ>などという頭の分類分けは取っ払われてどこにもないでしょう。
それに、それぞれの人が、その人にしか歩めないそれぞれの人生の道を堂々と歩んでいます。太郎君も花子さんも、猫も杓子も「達道の人」でない人なんていません。みんな尊い仏様、神様なのです。
さあ、「オハヨウ」の瞬間、今・ココで、仏様と神様が出会うのです。 彼と私がひとつになるのです。
なんと素晴らしい、奇跡の瞬間でしょう。
五祖法演禅師が弟子たちに質問した。「たとえば、窓から外を見ると、牛がノッシ、ノッシと通り過ぎてゆく。頭も,角も、前足も後ろ足もすべて通り過ぎたのに、どうして尻尾は通り過ぎることが出来ないのだろうか」
これも白隠さんの「八難透」に入っている公案です。
一生懸命坐禅し、修行して、悟り体験も得て、どんな公案でもことごとく解け、経典や禅籍も人が驚くほど見事に解説できる心境となったのに、どうして心にクリアで無い部分(尻尾)が残ってしまうのだろうか。
払っても、払っても、払いきれない濁りが残るのはなぜなんだろうか。
まじめに修行に励んでいると、そういう疑問におそわれる時が必ずやって来ます。
もし、コップの中の水をクリアにするだけなら、コップをよく洗い、古い水を捨てて、新しい水を入れればいいはずですね。
それでコップという囲いの内側だけなら、クリアにできます。
しかし、それでは、まだコップという囲いが解けていませんね。コップで喩えた「個我の殻」が残っています。
つまり、オレは悟ったという時は、そのオレが残っているのだから、それはまだ本物の悟りではないのです。
コップがほどけて、他のいのちたちと「ひとついのち」になった時、他のいのちの悩みはそのまま自分の悩みとなり、他のいのちの悲しみはそのまま自分の悲しみとなります。
そうして、もうオレは悟ったなどという個我の悟りはきれいさっぱり忘れ去って、みんなと一緒にオロオロ、ウロウロ生きるのです。
そのウロウロ、オロオロが牛のシッポなのです。
なんと愛しい、温かいシッポなんでしょう。
そんなシッポを昔は邪魔にして切り捨てようとしていたのです。何と申し分けないことをしようとしていたのでしょう。
これからは、そんなシッポをしっかり抱きしめて大切にして、一緒に歩んでゆこうと思います。
そういう覚悟が決まったところが、「本物の大乗の悟り」なのです。
五祖法俺禅師が弟子たちに質問した。「釈迦も弥勒も<彼>の召使いだ。さて、ではその<他>とは、いったい誰のことなんだろうか」
親鸞さんは、「阿弥陀さまが長年の修行の末、四十八の誓いを立て、ついに仏となられたのも、実は私、親鸞ひとりを護り、育てて下さるためであったのか。ああ何と有難いことであろうか」(『嘆異抄』)とおっしゃっています。
お釈迦さまは、実はあなたひとりを育むために三千年前に世に出られたのです。
また、あなたひとりの今生における人生の歩みがあるが故に、何千年先に弥勒さまが出現されるのです。
お釈迦さまやイエスさまをはじめ、過去に人生を送られたすべての人が、今、あなたを後押しして下さっています。
「私たちが進めなかった高み、地平まで、一歩でも二歩でもいいから前進してね」と、期待と祈りをこめて、力と智慧と勇気を与えて下さっています。
そして、私たちの今生の人生の歩みもまた、千年未来に誕生するA君のための助けとなるのです。
自分にも分かりません、誰にも分かりませんが(地上世界の頭にはそこまで届く認識は出来ません)そうなのです。
だから、今生で自分に割り当てられた人生を精一杯生きることが、きっと千年先、二千年先のA君やB子さんを護り、力と智慧をさずけ、勇気づけることになるんです。
だから自分がこの人生の道をたどることに意味があり、尊いことなんだと信じて、自分だけの道を、自分だけが歩める道を、誠実に、祈りをこめて、一歩、一歩、大切に歩んでゆきましょう。