潙山の場合-永平知事清規を読む(2)-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信184号」の内容を再編集して掲載させていただいています。

前回の記事はこちら

永平知事清規えいへいちじしんぎでは、難陀ナンダの話の次に、潙山いさん禅師の逸話が載せられています。潙山さんに関する記事は、それ以外にもいくつか、この本の中に掲載されているので、それらもあわせて紹介しておくことにしましょう。

若き潙山は、求道の志に燃えて、百丈禅師のもとにやってきて入門しました。すると師匠の百丈ひゃくじょう和尚は、潙山を典座てんぞ(食事係)に任命したのです。

なんということでしょう、潙山は不満です。

ひたすら坐禅して真理を究明したい、悟りを開きたいという目的で、世俗の何もかもを一切投げ捨ててこの道場に跳び込んだのに、修行僧たちの食事を調理をすることに追われて、坐禅をする、真理を究明するための時間なんて全然持てないのです。

それでも、最初のうちは、仕事を覚えることに精一杯で張り切っていましたが、ついに、燃え尽きたようになって、心は、もう二度と燃え上がることがない「死に絶えた灰」のような状態になってしまいました。

ただ、習慣で体が動いて調理しているだけで、ちっとも「生きている」という実感が伴いません。そして、動作は緩慢になり、くすんだ灰のような顔色になり、おざなりで不味まずい料理しか作れなくなってしまいました。雲水うんすいたち(修行僧たち)の食事に対する不満が、師の百丈和尚の耳にも届くようになってきました。

そんなある日、潙山は厨房で、何をするでもなく、ただボーッと突っ立っていました。そこへ、百丈和尚がやって来て言います。

「かまどに火種はあるか」
潙山は、かまどの方をチラッと見て言います。
「かまどに火種は残っていません」
百丈和尚は、かまどの中の灰をかき回して小さな「火種」を見つけ出し、潙山に「これは火種ではないのか」と示します。

潙山は、その火種を見ると、ただちに悟ることが出来たのです。

『ボクはすっかり情熱を失ってしまって、ウツウツと、もう死に絶えたようになっていたけれど、決して死んだわけではなかったんだ。
灰になったかのような心の奥底には、決して消えることがない「火種」がフツフツと存在して輝いていたんだ。

(註)この「火種」のことを、「仏性」あるいは「仏種」といったりしています。

どんな人にも、いのちの根底に、この「火種(仏性)」が宿っていて、その「火種」(いのちの根本遺伝子)が、その人を必ず「仏(ひとついのち)」というゴールまで連れて行きます。

大乗仏教ではじめて、この誰もが内蔵している「仏性」の存在が取り上げられるようになりました。それが小乗仏教との大きな違いなのです。

小乗仏教では、「灰身滅智けしんめっち」といって、地上世界に対する執着や欲望のもとである身と頭を出来るだけ早く捨て去って(灰にしてしまって)、厭うべき地上世界から離脱することを目指しています。

それに対して、大乗仏教では、この地上で体験するすべての出会いを糧(燃料)にして、「火種」をどんどん大きく育て、やがて宇宙全体のすべての存在に灯火を与え、温かく包みこむ「火元(光源、熱源)」となることを目指すのです。

(以下、潙山の述懐が続きます)

『この「火種」は、いのちをどこまでも高く伸ばしてゆこう、広げてゆこうとする激しくも、粘り強い意志だった。

自分の中にそんな強い「発展向上への意志」が潜んでいるというだけのことではないんだ。

そんな「火種」こそが、成長のために必要なモノや、環境をなにもかも引き寄せて来ていたんだ。

そのようにして引き寄せられた環境の中で学ぶことによって、その出会いを燃料にして、「いのちの炎」をどんどん高く伸ばし、拡大させてゆくことが出来るのだった。

ボクが「典座」という役割を勤めることになったのも、今の段階のボクには「典座」という役割を努めることが、成長のためには、どうしても必要不可欠なことであったから、ボクのいのちの本質である「成長・拡大の根源意志」が、この「典座」という役割を引き寄せたのだった。

それなのにボクは、その「典座」という役割から、逃げよう、逃げようとしていた。何か別のところに、悟りというものがあるように誤解していたんだ。

今、与えられた課題である「典座」という役割と、本気で関わることによって、その学びを燃料にしてこそ、ボクといういのちは、さらに激しく燃え上がることができるのだということにボクは気がつかなかった。

「君の成長のために、「食事係」という役割を与えるよ。その中から沢山の栄養分を吸収して、君のいのちをより高く、より広く育ててゆきなさい」という、そんな「仏性」の促しにようやく耳を傾けることができるようになった』

このようにして、潙山は、ついに「いのちの根源意志」(仏性)を悟ることが出来ました。そして「典座」という役割を本気で努めてゆくぞという覚悟がようやく定まったのです。

この「典座」という「お勤め」が、いつまで続くのか、それは分かりません。十年努めることになるのか、あるいは、一生の間やることになるのか、いや、生まれ変わり、死に変わり、何生もの間勤めねばならないのか、それは分かりません。

しかし、潙山に分かったことが二つあるのです。

一つ目は、「いのちの根源意志」(仏性)が、これからのボクに最適な位置や進路を計画し、決定するのだということです。

もうこれからは自分の思惑や計算で自分の進路を決める必要はないのです。いのちの本能に任せておけばいいのです。

二つ目は、「いのちの根源意志」(仏種)は、必ずボクたちを、最後は「ひとついのち」のゴールへと運んでゆきます。

そうと分かってみれば、どんな出会いに遭遇したとしても、それは「仏性」から与えられた、今のボクが取り組むべき最適の課題なんだから、そのままドンと受け入れて関わってゆけばいいだけです。

このような「いのちの根源意志の悟り」を得て、見事に復活した潙山は、師の百丈和尚に感謝の礼拝をして、獲得した心境を説明しました。

百丈和尚はおっしゃいます。

大般涅槃経だいはつねはんぎょうにこんな言葉があるんだよ。
『仏性を見んと欲せば、まさに時節因縁を観ずべし。時節すでに至れば、迷うてたちまち悟るがごとく、忘れてたちまち憶ふがごとし。まさに省みれば己物なり。他より得るにあらず』と。

これはだな、今・ココの出会いから眼を逸らさずに直視、直面しなさいということだ。

時節すでに至れば
これはだな、今・ココの出会いから逃げ出さず、いやいや関わる弱腰や、へっぴり腰をやめて、これこそ我がいのちと、ドンと引き受けて本腰で関わってゆく覚悟が定まればということだ。

すると『迷うてたちまち悟るがごとく、忘れてたちまち憶ふがごとし』となるんだ。

これは、未来に偏らず、過去に引き摺られず、自分が置かれた今・ココという、自分が本来腰を据えるべき位置に復帰できたということ、自分が自分に落ち着けたということ、これこそが「悟り」なんだよ。もともとそうであった自分が自分にもどるだけなので、『忘れてたちまち憶ふがごとし』なんだよ。

まさに省みれば己物なり。他より得るにあらず

これは、自分が自分の成長に必要な出会いを引き寄せていたんだということ。

外から、否応なしに物事がやってくるというのではなかったんだ。外から来るように見えて、それらも全部我が事であり、外という姿で現れている「自分自身」なんだ。自分が自分とココで出会うんだよ。
 
もし君が、刻々に出会う時節因縁に、そこから逃げようとしたり、イヤイヤ、あるいはビクビクと、へっぴり腰で関わってゆくのでなく、いのちの全体で、ドンと来い、何でも来いと本腰をいれて関わることが出来るようになれば、もうそこにいのちの悟りはあるんだ。

自分の外に悟りがあるのではなく、そんないのち全体を掛けた覚悟の今にこそ悟りはあったのだ。 

もう君はいのちの歩みの覚悟が定まったのであるから、外に何かを求める必要はないんだ。あとは、その覚悟を「典座」という実践の場によって確かなものにしてゆくだけなんだ。

その覚悟を決めることは、決して一回限りで済むものではないのだ。与えられた課題に真剣に関わってゆけばゆくほど、その覚悟はますます強く、深まってゆくものなんだよ」

潙山がようやく「典座」という役割に、いのちの全体重をかけて関わってゆくことが出来るようになって何年かが経過しました。

ある時、百丈和尚が馬祖ばそ禅師のもとで修行していた頃の兄弟弟子の司馬頭陀しばずだが道場にやって来ました。

この人は、不思議な人で、人相や地相を観ることが出来るのです。

中国の全土を巡って、禅の道場としてふさわしい土地を見出し、さらにその土地の相にふさわしい人材を見出して、その地に送り込むということを天命としてやっていたのです。

唐代に建立された多くの有名な禅道場やその道場で活躍された指導者は、この司馬頭陀が、観相によって見出した土地と人材だったのだそうです。

さて、その司馬頭陀が、兄弟弟子の百丈のもとにやって来て言います。
「素晴らしい地相をもった山を発見したよ。この土地に道場を建てれば千五百人の修行僧を養うことが出来るぞ」

百丈が言います。「じゃあ、俺がその山に入ろうか」

司馬頭陀は言います。「いいや、やめとけ、やめとけ。お前には無理だよ」

百丈が聞きます。「なぜ、俺じゃダメなんだ」

司馬頭陀が言います。「あの山は『肉山』で、お前は『骨人』だ。だから、お前があの山に入っても、千人の弟子も集めることも出来ないよ」

悟りを開いたといっても、その働きの現れはさまざまです。
それぞれ役割、天命が違いますからね。司馬頭陀さんのように、弟子を一人ももたずに全国を放浪し、地を観、人を観るという不思議な役割を果たす人もいるし、弟子が何千人も集まる人もいるし、弟子が十人に満たなかったという人もいます。

たとえば、これまで何度も紹介したことがある趙州じょうしゅう禅師という方は、弟子が少なくて、いつも十人以下だったそうです。貧乏寺で、破損しても修理も出来ず、食料にも事欠いていたそうです。それでも、趙州さんの悟りの深さと大きさは、禅の永い歴史の中でも突出していますよね。

百丈という方は、本当にまじめな人で、有名な逸話があります。

百丈さんは歳をとってヨボヨボになっても、作務さむ(労働)の時間になると、若い弟子たちに混じって、一緒に働いていたのです。

それで、弟子たちが心配して、百丈さんがいつも使っているくわすきを隠してしまいました。 

すると、その日から百丈さんはご飯を食べなくなったのです。弟子たちが食事して下さいとお願いすると、例の有名な『一日さざれば、一日食らわず』とおっしゃったそうです。

まあ、そんなまじめな人ですから、ホッと息が抜けるところがないのですね。ですから、弟子がたくさん集まるということがなかったのです。

しかし、『骨人』で、バックボーンはしっかりしているので、潙山いさん黄檗おうばくという、禅の歴史上、燦然と輝く二大巨頭が育ちました。

百丈さんの貢献の一つは、『清規しんぎ』(禅の道場での行動マニュアル)をはじめて作ったということです。

それまで、禅は盛んではなく、別宗派のお寺に間借りしたり、庵居して単独で修行したりしていたのです。

それを、はじめて禅として一派を立ち上げ、集団生活のなかで学んでゆくという、現在の禅道場のスタイルを確立されたのは百丈さんなのです。

しかし、それはまた、禅というおおらかで、底抜け間抜けで、途方もないものに、きまじめな枠をかぶせ、型にはめてしまったということでもありますね。

この地上世界で行うことには、どんなことにも善い面と弊害の面が必ず伴われてきます。

それだから、この地上世界のことどもには一切手出しはムダだ、やめとこうというのは小乗仏教で、大乗菩薩の精神はそうではないのです。

今・ココで自分がやるべき役割だとなったら、後先考えず、成功しようが失敗しようが、覚悟を決めて踏み出すのです。

人がいかに貶そうが、馬鹿にしようが、悪者と評価されようが、自分にしか担う者がいないのですから、覚悟を決めてやるだけのことなのです。

百丈さんは『骨人』なので、『肉山』には、ふさわしくないわけです。

それで百丈さんは、「肉山の主となるにふさわしい者が、自分の弟子の中にいるだろうか」と、司馬頭陀にたずねます。すると、司馬頭陀は、「じゃあ、試験してみよう」と、弟子を次々、面前で歩かせます。「歩行の相」で判断するわけですね。
 
そして、典座をやっている潙山は年若いけれど、この肉山にふさわしい人物だと見抜いたのです。

ところが、最年長の弟子、華林かりんがクレームをつけるのです。なぜ、あんな若造を選ぶのか、なぜ俺じゃないんだというわけですね。

それで、百丈さんは二人に2次試験をすることにしました。

浄瓶じょうびょうを床に置いて、まず華林に問います。
「これを浄瓶と言わずに、何と呼ぶか」

それに対して、華林は「まさか、ぼくとつとも言えますまい」と答えました。

(註)「浄瓶」とは、浄水を入れておく容器で、上部に細長い注ぎ口がついていて、下部はふくらんでいます。「木とつ」の「とつ」は、木偏に突で構成されている文字です(ワープロでは活字が見つかりませんでした)。 どういうものなのか、いろんな説があり、はっきりしませんが、「突く」が入っているので、木製のもりくさびのようなものかも知れません。いずれにしても、「浄瓶」と形状が似ているものだったのでしょう。

次に、潙山にも同じ質問がされました。
すると、問いかけが終わるやいなや、潙山はトットットと浄瓶に向かって進み、それをポーンと蹴飛ばして、後も振り返らず、厨房に戻っていってしまいました。

この解答に百丈と司馬頭陀は大笑いして、確かに潙山こそ、その山にふさわしいと、派遣することに決めたのです。
 
なぜ、潙山さんはこんな爽やかで鮮やかな解答を提出できたのでしょう。

それは、「覚悟」が決まっていたからですね。いのちの「火種」が必要とするものが引き寄せられてくるのですから、まだ典座でいることがふさわしいなら、引き続き典座を勤めてゆくだけのことなのです。
ですから、頭が働いて出世を望んだり、典座をはやくやめたいなどとちっとも思わないのです。

このように、「吹っ切れている」、「思い切れている」からこそ、ポンと蹴飛ばしてそのまま厨房に帰ってゆくという素晴らしい解答が提出できたのです。

シャカもイエスも
蹴っ飛ばし
地位も名誉も
蹴飛ばして
オレはオレだと生きてゆけ
ウジウジするな、前をみよ
胸を張り張り、堂々進め
そうすりゃ不思議
やれ不思議
みんなぞろぞろ付いてくる
「待って、待って」と付いてくる
宇宙全部がゾロゾロと

そして、「火種」が、潙山に次のステージが来たぞと、「新しい道場の主となる、指導者となる」という役割を引き寄せてきたわけですね。

でも、間違わないで下さいよ。
誰かが山を開墾してくれ、伽藍がらんを建ててくれ、すべてをお膳立てして「はいどうぞ、指導者として入山して下さい」というわけじゃなかったのです。

ただ、指名されただけで、まったくのゼロからスタートしなければならなかったのです。

まず、その山中にあった、誰も使わないで朽ちていた猟師小屋に入って、それを修理して住み始めたのです。

食料とて無いので、木の実や野草を食べていたのです。ひたすら小屋の中で坐禅して過ごしたのです。

寒くてふるえたことも、まま、あったことでしょう。
ひもじくて苦しんだことも、多々、あったことでしょう。

そういう年月が十年あまり続きました。

潙山さんはそんな苦しい時期を、どうして乗り越えられたのでしょうか。

それは、この環境こそが、自分が成長するために天(仏性)から与えられた最適の課題なんだという確信があったことと、この出会いから眼を逸らさず、直面して受け止めてゆくだけだという覚悟があったからこそなんです。
 
あるとき、山菜採りに来ていて、道に迷った村人が潙山さんが山中に住んでいるということに気づきました。
潙山さんと話しているうちに、なぜか心が明るくなり、軽く弾んでくるのです。
とても嬉しくなって、村に帰って「山の中に面白いお坊さんがいるよ」と、潙山さんのことを知らせました。

村人が少しずつやって来るようになり、噂が広まって、修行僧も集まるようになってきました。
そして、「伽藍を建てて下さい」と、多額の寄付をして下さる人も出てきて、わずか数年の内に、修行僧千五百人を擁する大道場が出現したのです。

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