鈴木正三老師のこと-その1-

しあわせ通信(毎月15日更新)

今回は江戸時代初期の禅者であった鈴木正三しょうさん老師のお話しをしましょう。

ひだまり文庫の『正々堂々、おひさまの道を歩む』でも正三老師のお言葉を紹介しているので、興味を持たれたら読んでみて下さい。

ひだまり文庫では、残念ながら紙面の関係で、正三老師の経歴を入れることが出来ませんでしたので、ここで正三老師の略歴を補足しておきます。
 
正三老師は禅界のエリートコースを歩まれた方ではないので、その業績はずっと埋もれたままだったのですが、鈴木大拙さん(禅の素晴らしさを世界に紹介された方)が発掘して紹介して下さり、老師の言行録である『驢鞍橋ろあんきょう』(岩波文庫)も残して下さいました。この『驢鞍橋』は、正三老師の弟子である慧中さんがまとめたものだそうです。

正三老師は、天正7年(1579年)則定のりさだ城主 鈴木重次の長男として生まれました。則定は、現在は愛知県の豊田市に属する地域だそうです。

豊田市には、鈴木正三史跡公園、鈴木正三記念館がありますと、豊田市にお住まいのお仲間が知らせて下さいました。以下の正三老師の略歴も、その豊田市のお仲間が送ってくださったパンフレットからの引用です。

鈴木家のルーツは紀州熊野です。

熊野地方で、田に棒をたて、そのまわりに稲束を積み重ねて豊作を祈願する。その神事を担当する神官の家柄が穂積氏だったそうで、この神事で神に降臨していただく中心に立てた棒のことを「すずき」といったのだそうです。ここから「穂積姓」と「鈴木姓」が始まったとされています。

略歴

鈴木重基が熊野から参州(三河)に移住。さらに十余代を経て、正三老師の親である重次が出た。

天正10年(1582年)4歳のとき、いつも一緒に遊んでいた同い年の子が死ぬのを見て、死ぬということがどういうことなのか疑問をいだき、苦しんだという逸話が残っている。
天正16年(1588年)10歳のとき、弟の重成が生まれた。

天正18年(1590年)12歳のとき、主である徳川家康が関東に移封され、父と共に上総の国塩子しおご村に移った(茨城県)。

文禄4年(1595年)17歳のとき、寳物集に載る涅槃経ねはんきょう雪山童子せつせんどうじ(釈迦の前世)の因縁を読んで、半偈を求めて身を投げた童子の如く、道のために身命を惜しまざる決意を固めた。

慶長5年(1600年)22歳のとき、関が原の戦いで徳川秀忠に属し、信州真田で初陣ういじんをとげる。

慶長12年(1607年)29歳のとき、実子 重辰しげときが生まれた。
 
慶長19年(1614年)36歳のとき、大阪冬の陣に参戦。
慶長20年(1615年)37歳のとき、200石を賜り、旗本となり、大阪夏の陣で、徳川秀忠のもと、先陣をつとめた。 

元和5年(1619年)41歳、大阪城番を勤める。「盲安杖もうあんじょう」を著す。

元和6年(1620年)42歳、江戸で出家。

元和9年(1623年)45歳、千鳥寺せんちょうじ(豊田市)で修行。
寛永元年(1624年)46歳、石の平(豊田市山中町)に庵し、修行。

寛永4年(1627年)49歳、「因果物語」を編集。
寛永8年(1631年)53歳、「四民日用しみんにちよう」を著す。
寛永9年(1632年)54歳、石の平に石平山恩真寺せきへいざんおんしんじを開く。中央本尊観音大士、左右脇侍 家康、秀忠。「二人比丘尼」、「念仏草紙」を著す。
寛永13年(1636年)58歳、「麓草分ふもとのくさわけ」を著す。

寛永14年(1637年)59歳、島原の乱。弟の重成は鉄砲隊長として従軍。
寛永17年(1640年)62歳、重成、初代天草代官となる。
寛永19年(1642年)64歳、正三、天草へ下る。32の寺を建立(浄土宗1寺、 曹洞宗31寺)。
承応2年(1653年)75歳、重成、天草の民の困窮を救うために、石高半減(年貢の軽減)を訴え続け、ついに江戸で自刃す。2代代官となった鈴木重辰しげとき(正三の実子)も、重成の遺志をついで努力したので、年貢はついに半減された。
そのことを感謝した天草の人々は、20数箇所に鈴木塚を築いた。天草には鈴木神社が設けられた。その神社では、鈴木重成、正三、重辰の三公をお祀りしている。

明暦元年(1655年)77歳、江戸の弟重之の屋敷で没する。

罫線で囲った箇所を読んだ時、私は大きな衝撃を受けました。
個人として身を犠牲にして多くの人を救った方はいらっしゃいますが、この話では、鈴木家の家族一統が保身に走らず、我が家系だけの繁栄を望まず、全員で心を一つにして、困窮する天草の人々を救うために、身を犠牲にして奔走しておられます。そういう美しい、尊い家系を築き上げてきた、鈴木家の代々のご先祖の方々に頭が下がりました。

私たちもまた、世のため、人の為に尽くす子孫が輩出する家系を築く土台となる「徳積み」をしっかりしてゆきたいですね。

豊田市が繁栄している基盤には、鈴木家の身を犠牲にした大きな徳積みのおかげもあるのかもしれませんね。

インターネットで検索して、自刃事件の前後の事情を調べたので紹介しておきます。

一揆後の天草は天領(幕府の直轄地)となる

日本最大にして最後の一揆と言われる、1637年の「島原・天草一揆」。多くの犠牲者を出したこの戦いの後、天草は幕府直轄の天領となりました。

初代天草代官として着任した鈴木重成(正三老師の弟)は、富岡城の代官所を拠点とし、天草の復興に取り掛かります。

重成は、天草を10組・86ヶ村に分割し、大庄屋や庄屋を配置しました。一揆で人口が減少し、荒れ果てていた地域には近隣からの移住者を招き入れ、農業や漁業の活性化にも取り組みました。

さらに、一揆によってすさんだ人々の心の安定を図るため、僧侶である兄・鈴木正三を天草へ呼び、島内各地に次々と神社や仏閣を整備したのです。こうしてつくられた「天草四ヶ本寺」をはじめとする社寺は、キリスト教に変わる新たな心の拠りどころとなりました。

石高半減!それは命がけの訴えだった

復興の兆しが見えてきた天草でしたが、定められた石高4万2千石には到底及びません。

あらためて検地を行った重成は、無謀な重税の事実に気づきました。

島原領の石高は実質2万石であるのに、以前この地を治めていた唐津藩の寺沢氏は、自らの国力を強く見せるために、田畑の収穫が3万7千石、他に漁業などの運上を5千石。合計で実態の倍以上である4万2千石が、天草全島の石高であると幕府に報告したのです(大名の位は自領の石高によって決まるので背伸びした。そして、石高によって農民が収める年貢量が定まるので、本来の2倍の年貢を収奪されて、農民は餓死したり、逃散せざるを得なくなった)。
(註)寺沢家の家系はその後まもなく途絶えてしまいました。因果応報ですね。

不当な年貢の要求に苦しみ抜いた農民たちの不満が、「島原・天草一揆」の主因となったことを知った重成は、幕府に石高の半減(年貢の半減)を嘆願しますが、その願いは容易には聞き入れられませんでした。

重成は建白書を遺し、江戸の自宅で切腹します。

二代目代官となった甥の重辰(正三老師の実子)も度重なる訴えを行い、7年後にようやく石高半減の通知が下されました。

命がけで島民を守った鈴木重成を偲び、天草の人々は東向寺の一角に遺髪塚をつくりました。

のちに天草の30数カ所に分祀された塚は「鈴木さま」として親しまれるようになりました。また、最初の遺髪塚には「鈴木神社」が建立され、今も人々の信仰を集めているということです。(次号に続く)

※ページ最初の写真は天草・富岡城址にある鈴木重成(左)と鈴木正三(右)の偉人像です。

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