私が書いた本に何色ものラインをいっぱい入れたのを見せて下さって「このように、先生が書かれている通りに実践してみたのですが、願いは実現しませんでした」とおっしゃる方がたまにいます。
なぜ、うまくいかなかったのでしょうか?
それは、その方が大敬の文章を「アタマ」で読み、「アタマ」で操作して、「アタマ」の努力で想いを実現しようとしておられるからです。
もちろん「アタマ」は「イノチ」の大切な一員ですが、「イノチ」の全部ではありませんね。「イノチ」の部品である「アタマ」で、「イノチ」の全部をコントロールし、自らの運命の方向を変えてやろうなんていうのは、少し強引すぎるのです。
逆にいえば、「アタマ」なんて悪くても、集中力や計画性がなくても、しあわせに生きる、思いがけないハッピーに次々出会うということも可能です。
大敬の本や文章を読まれる時は、言葉としてではなく、「ふわっとした波動」を、皮膚から吸収するような感じで読んでほしいと思います。
大敬の「ふわっとした波動」とは、どんなものかというと、それは「ゆ」の言霊の波動だと思います。
ゆっくり、ゆったり
湯につかり
心をゆるめ、身をゆるめ
自分をゆるし、人ゆるす
そんな「癒(ゆ)」の道
大敬の道は
そんな「ゆの波動」は、大敬がする坐禅の場から、時空を超えて鳴り響いて伝わっていっているのだと思います。
大敬の坐禅は「ただ坐る」だけの坐禅です。なにか目標がある坐りではありません。「アタマ」が過度にはたらくのをやめにして、ゆっくり、ゆったり、ただ坐るだけです。
そうすれば、ホッとします。「イノチの土台」に戻れたと実感できます。
「イノチ」の土台に戻れると、自然に「自信」と「安心」が、その「イノチ」の土台から湧き出してきます。
なぜ、「自信」なのか、なぜ「安心」なのか、その理由はまったく分かりません。ただ「安心」で、ただ「自信」なだけです。
実は、この「根拠のない自信」、「根拠のない安心」こそが、しあわせな人生を実現してゆくうえで一番大切なものなのです。
『なぜだか分からないけれど大丈夫』、『何だか知らないけれど、きっとうまくいくはずさ』と自然に思えるようになるということが、「アタマ」で綿密な計画を立て、必死に努力するよりもよっぽど大切なことなのです。
それでは、どうすれば「根拠のない自信」、「根拠のない安心」が持てるようになるのかというと、そういう「ふわっとした波動」がにじみ出している大敬の本や文章や音声講義を「アタマ」ではなく、「皮膚」で聞く、全身で吸収するようにしてくださればいいのです。
文章で読む場合はどうしても「アタマ」主導となりがちなので、意味を探ろうとせず、ただ音読されるのがいいと思います。私も、法華経や古事記を読む場合は、今でも意味を詮索せず、ただ音読を繰り返しています。それでも、必要な意味や解釈が必要な時に湧き上がってくるというのも不思議なことですが、それは「イノチ」の本来性の発動なのでしょう。
音声講義を聞かれる場合は、「アタマ」で聞く必要はないのだから、車を運転されながらでも、お仕事や作業をされながらでも、あるいは寝ながらでも、ただ聞き流してくださるだけでいいのです。
それから、大敬がやっているような「ただゆったり坐る」という習慣をつけることです。毎日10分間でもいいので、「アタマ」をやめてホッと坐ってください。そうすれば、自然と「ゆ」の波動とつながることができます。