古代日本の人たちは、身や心が病気になるのは、その人の魂が2つ、あるいは複数個に分裂して、その魂の一部が身心から追い出されて去ってしまったからだと考えました。その分、本体の魂が小さくなるわけで、生命エネルギーも弱くなり、病気に冒されやすくなるというわけですね。
またさらに、身体から追い出されたことを恨んだ遊離魂が、憤りのエネルギーを増やしてUターンしてきてその人を攻撃してくるんだとしたのです。
つまり、自身から遊離した魂の断片が「生き霊」になって祟るというわけです。それで病気になったり、あるいは不幸な出来事に遭遇したりすることになるんだと考えたのです。
これは荒唐無稽な話のようにお感じになるかも知れませんが、現在の心理学でも、説明の仕方は違いますが、やはり同じように考えています。
心理学の説明はこうです。
まず「意識的な私」がありますね。そんな「私」に都合の悪い「私のイノチの部分」も存在しますね。
たとえば、「意識的な私」は、ある企業に勤めていて、ひたすら出世することを目指しているとします。
しかし、「私」のイノチのすべてがその目標目指して協力して頑張ってくれるかというと、そうではありませんね。
たとえば、怠惰に暮らしたいという「怠け心」もありますし、出世したからどうなんだという「冷静な批判心」もあります。
また、実はこの人は感性が豊かな人で、この会社に就職する前は芸術家になりたかったのかも知れません。また、自然や人やモノに対する共感や思いやりの心が強くて、教師や宗教家としての素質も実はあるのかも知れません。
しかし、出世という目標達成に必要でなかったり、むしろ邪魔になる私のイノチの部分は困りものですね。
だから潜在意識の薄暗い領域に、それらの無用のもの、邪魔なものを押し込んで、フタをして出てこれなくするわけです。そんな自分を否定して、見ないようにする、感じないようにするわけです。
この現代心理学の「潜在意識に押し込まれる」とする説明を、神道では「魂の一部が本体から追放される」と表現しているわけですね。
しばらくは、これで邪魔者がいなくなったというわけで、順調にやってゆけるでしょうが、潜在意識に押し込められてしまった、その人のイノチの一部は、どんどんエネルギーを吸収して大きくなり(意識との交流がなくなるとコントロールがきかなくなり、自動的にエネルギーを吸収し始めます)、力を持って表面に湧き上がって来て「意識的な私」の出世を目指す行動を妨害したり、ブレーキを掛けたりし始めます(身心の病や事件などを、潜在意識が引き起こすことになる)。
さらに、やがて「投影」という現象も起こり始めます。
「意識的な私」が否定した私の中にあるイノチの部分が外に投影されて、私のまわりに都合が悪い人やモノとなって現れ、困った現象が次々起こるようになってくるのです。
ここのところを、神道では「魂の本体から追い出された魂の断片が力を持って、本体を攻撃するようになる」と説明しているわけですね。
さて、そんな「意識的な私」の思い通りにならなくなったツラい状況を抜け出すために、神道では「鎮魂(又は「ちんこん」とも呼ぶ)」という行法が行われていました。
「鎮魂」とは、「遊離した魂を身体に引き戻し、鎮めるためための行法」です。
現在でも、行法が儀式化されて、石上神宮、物部神社、彌彦神社や「宮中」で、毎年執り行われているそうです。
古事記に載っているこの「天の岩屋戸神話」が、「鎮魂」という儀式の原形だとされています。
この神話は、ウツ状態になったアマテラスが、鎮魂の行法によって復活するというストーリーでしたね。
母なし子のアマテラスは、お父さんのイザナギの寵愛と期待を一身に受けて育ちました。
高天原と地上界の理想的な主神となって欲しいというお父さんの期待に沿うように、一生懸命に励んできた孝行娘だったのです。
しかし、その努力は「主神としてはこうでなければならない。このように振舞わねばならない」などという「頭主導」のものになっていて、結局、「全体のいのち」の『きついよー!』という悲鳴や『ちょっとおかしいよー!』という訴えにちっとも耳を貸さず、無視したり、不都合であるとして押さえつけたり、フタをして隠したりして、強引に意識的な努力を続けてきたわけです。
やがて、そのような無理な努力にも限界がきました。
アマテラスの体や潜在意識のなかで力を増していったドロドロやモヤモヤの暗黒の強い魂のエネルギーが、アマテラスの中に居場所を失って、弟のスサノオに転移して、スサノオの非道な行動となって現れだしたのです。
つまり、アマテラスが、太陽神として明朗で、慈悲深く、強くあろうとし、自分の中にある暗さや悲しさや弱さを押さえ込み、それらを負の想念として、自らの意識の世界から排除してしまったことにより、それらの闇の(本当は闇ではなく、アマテラスがソレらを認めない、受け入れない、許さないことによって、闇の存在に育ててしまったのです)想念のエネルギーが、弟の身を操ることになってしまったのです(つまり、生霊の憑依ですね)。
「お母さん(イザナミ)のいる黄泉の国に行きたいよー!」というスサノオの叫びと号泣は、実は、自らの女性性を無視したまま、自分の弱さを受け入れられないアマテラスの心の奥底の「叫びと号泣」でもあったのです。
スサノオの不良ぶりは、アマテラスの過度の模範生ぶりが作り出した反動だったのです。
そんな模範生のアマテラスによって虐げられた「身体と潜在意識」を代表して反逆者を演じることになったスサノオがついに高天原にやってきてアマテラスと対決します。そしてアマテラスは敗北するのです。
それはそうなるはずですね。
スサノオは、いのち全体を背景にする強いエネルギーを保有していますが、アマテラスの味方はわずかに表面意識が届く頭の領域とその狭い範囲のわずかなエネルギーだけだったからです。
スサノオに敗北したアマテラスは、これまでの自らのあり方や行動を根底から見つめなおさねばならなくなります。
そして、ついに「天の岩屋戸」に引きこもってしまいます。
太陽神が岩屋に閉じこもったことにより、世界は暗闇に覆われます。
このままでは、せっかくお父さん、お母さん(イザナギ・イザナミ)が苦労して生み、育ててきた世界と人と生きものたちが死に絶えてしまいます。
そこで、高天原の神々が集まって、アマテラスを引きこもりの状態から解放し、世界に光を復活させるための処方箋を考え出しました。以下にその処方箋の主なものを取り上げて説明しましょう(長くなるので、今回は①だけを取り上げ、解説します)。
① 「ミスマルのタマ」を作る。
② 「鏡」を作り、アマテラスに姿見させる。
③ 桶を伏せて、アメノウズメがその上に乗り、トントン桶の底を足で踏んで踊る。
④ アメノコヤネが祝詞をあげる。
⑤ 神々の笑いと、いのちの開放を促す合唱。
では、先ほど列記した「心が干からびて、何事もやりたくないような状態になった人の元気を回復させるための作戦」の①だけを解説しておきましょう。
① 「ミスマルのタマ」
「スバル」という、肉眼では6つの星に見える星団がありますね。
バラバラになってしまった複数個のモノ(「スバル」では、複数個の星)を1つにまとめることを「スバル」、または「スマル」といいました。
また、「ミスマル」の「ミ」は「身」です。「タマ」は「魂」です。
つまり、複数個に分離して漂っている魂を「身」に引き戻して鎮める呪力を持つのが「ミスマルのタマ」で、具体的には「勾玉の首飾り」のことです。
つまり、「ミスマルのタマ」とは、複数個の勾玉(これが身体から分離して出て行った複数個の魂の断片を象徴しています)を1本のヒモ(これが「身」の象徴です)で貫いて1つのまとめたもののことです。
心が干からびて、元気が出なくなったなあという時は、勾玉の首飾り(高価なものでなくてもいいです)を用意して、それをユラユラと振りながら、「数歌祝詞」を十回称えます。
あるいは、編み物(分離した魂を1つに編み込むことの象徴的行為)や、縫い物などの作業に無心で取り組んで「没頭」するのも有効な呪法です。
<数歌祝詞>
一 二 三 四 日踏みよ
五 六 七 八 嫌むなや
九 十 個々(今・ココ・自身)の足り
百 千 萬 百力結集
<意訳>
君は「太陽神のいとし子」、君の人生の歩みは「日の行進」
どんなことが起こっても、嫌ったり、逃げたりしないこと。それはきっと君を育てる「日の肥やし」
君は君でOKで、「今とココ」が、君にとって最善・最適なんだと信じ切ろう。
そうと覚悟を決めて「今とココと自身」にいのちの全体重をあずけて歩んでゆけば、「神の力」が君に結集。君のワザは神業となる。