第一信への返事

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信162号」の内容を再編集して掲載しています。

H・Bさま

真摯なお便り、ありがとうございます。
自分の身に引き当ててしっかり読んで下さって、とても嬉しく思いました。

人間の頭なんて、本当に大したもんじゃありません。
先のことなんて、どうなるかさっぱり分かりませんし、過去のことだって、自分が意識的に選んでスポットライトを当てたところだけを過去としているのです。

過去世だって、自分がソレを選んだものなのです。そう意識的に選んで、その延長上に未来を決めようとしているだけのことなんです。

本当は、いのちはひとつしかないのですから、すべての人のすべての過去世が、実は私の過去世なんです。
ブッダも私の過去世、ヒットラーも私の過去世なんです。
そうなってきたら、もう何が何やらさっぱり分からなくなってしまいますね。
ただ、ボーッとして、人格の輪郭がなくなってしまうからです。

人格の輪郭がなくなったということは、ここまでが私だという境界がなくなってしまったということですね。
それでも、どっこい私はちゃんと生きていますし、必要な時に、必要な行動がとれるし、必要なお金でも、物でもちゃんと供給されます。なぜなんでしょうね。

それは、私が私を生きることが、いのちの全体、宇宙全体の意志、要請だからです。
ですから、私は大きな仕事が与えられても、小さな仕事を提供されても、それは大宇宙からの「今度はコレをやってみなよ」とプレゼントされた課題なのですから、四の五の、グズグズ言わず、誠実に果たしてゆくだけでいいのです。

神さまの眼から見たら、使命や達成に大小、貴賤はないのです。
ただ、私は私にやってきた課題をコレ、コレとやっつけてゆくだけのことなのです。

私にやってきた課題は、宇宙広しといえども、たった一人、私にしかクリアできない課題なのです。私がコレを解決しなければ、人類の魂の進化はついに完成できないのです。

触処そくしょ生涯しょうがい』という禅の言葉があります。
遠く(未来や過去)を感受する眼や耳に重点を置かず、もっと根源的な今・ココでの皮膚感覚、触覚を根本にすえて、ナメクジさんのように、肌に触れ、触覚に感じた目前のモノゴトにだけ対応してゆく生き方のことです。

そんな生き方をしていれば、支離滅裂な人生になってしまいそうに思うでしょう。私もそういう不安を持って、やはり人生計画をしっかり立てて、目標めざして努力してゆくべきじゃないだろうかと長らく思っていました。

しかし、もし私が盲目で、耳が不自由で、喋れなくても、ちゃんと観てくれ、聞いてくれ、語って下さるお方がいるのです。そのお方を神といっても、高次の自己といってもいいのですが…。
先を見通したり、計算したりという面倒な作業は、自分の頭の能力を超えるもので(計算出来る範囲のことは自分の責任ですから間違えないように)、一切合切お任せしておいて、ただナメクジさんに専念しておればいいのです。

そうすると不思議ですね。いや当然のことかな。
そんなナメクジさんの人生の歩みの道筋は、きっと最善のものとなるのです。晩年になって我が人生をふりかえって感謝することになります。

雲門禅師のところに、修行僧がやってきて質問しました。
「もし、眼が見えず、耳が聞こえず、しゃべれない人がやって来たら、どう対応されますか」

つまりね、この修行僧は、ナメクジさんになるところまでは悟ったのです。そのことを誇らしく表明しているのです。

すると、雲門さんは「礼拝せよ」と言います。
僧が礼拝すると、雲門は棒で僧を突かんとします。
僧は後退します。
雲門さんは、「君は目が不自由でない」と言います。

ここはなかなか難しいですが、この修行僧は、すでに個人の眼をナシにして、モノを見ない(無の)境地を獲得しているのです。
しかし、そんな境地にいても(無心でいても)、棒がとび出してきたら、サッと避けることができますね。
これは、個人の眼を放棄してなくしても、必要な時に、必要な眼が出現してイノチを護ってくれることを教えているのです。
この眼は個人の眼ではなく、全体生命に根拠をおいた眼なのです。

また、雲門さんは「こちらに来なさい」と言います。
僧が近寄ると、雲門さんは「君は耳が不自由でない」と言います。

個人の耳で、情報集めに汲々きゅうきゅうとなっていなくても、耳を落として無心でいたら、全体の耳が必要に応じて出現して、その時に必要な情報はちゃんと届くんだと教えているのです。

雲門さんは、「分かったかい」と尋ねます。僧は「いいえ、分かりません」と答えます。雲門さんは「君は口が不自由ではない」と言います。
この時、この僧は悟りを開いたそうです。

まず、眼に依らない、耳に依らない、コトバに依らない、ナメクジさんのような生き方を練習します。

それがある程度、出来るようになれば、時と場にあわせて、適切な眼や耳や口や頭がただちに現れ、生き生きと最適の働きをするようになるのです。

でも、それらは、現れた瞬間に、使命を果たして消滅するので、自分の眼や耳や口として保有しておくことはできないのです。
ですから、自分の眼、自分の耳、自分の口だと主張することは出来ません。
あえて言うなら(あまりいい表現とも思えませんが)、『全体生命の眼・耳・口』ということです。

そこで出現する眼や耳や口は、あなたの能力をはるかに超えた働きができるのです。
あなたという個性の輪郭がなくなってしまったのですから、あなたの能力に限界の仕切りはなくなるのです。

いかがですか。
少し語りすぎたかも知れませんね。
いのちは促成栽培できません。少しずつ、あせらず歩みましょう。

取りあえずは、皮膚感覚に心を澄ませる練習をして下さい。

かすかな風がやさしく肌に触れるその微妙な感覚、お風呂に入った時のお湯の肌触りに耳を澄ませる感じ、木に触れた時の肌触り…。
それらを大切にしましょう。 

眼も耳も皮膚から進化して形成されたもので、皮膚感覚こそが根源的な感覚なのです。

碧巌録には、お風呂に入った時、そのお湯の肌触りによって悟りを開いたという十六人の僧の話が書かれています。『妙触みょうそく宣明せんみょう』というコトバもあったように覚えています。参考にして下さい。

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