趙州さんの公案

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信211号」の内容を再編集して掲載しています。

【公案1】趙州石橋しゃっきょう

唐の時代のことです。
趙州じょうしゅう禅師のもとに修行僧がやってきて言いました。
「趙州の石橋は見事だという評判を聞いてはるばるやって来ましたが、ただのみすぼらしい丸木橋でがっかりしましたよ」
趙州さんは言いました。
「君は丸木橋だけを見て、本当の石橋を見抜けないんだよ」
僧は言いました。
「じゃあ、本当の石橋とはどんなものなんですか」
趙州さんは答えました。
「ロバも渡すし、馬も渡すのさ」(碧巌録第52則)


解説

趙州さんの趙州は実は町の名前です。臨済さんの臨済もやはり地名で、昔の禅者は住んでいる土地の地名や山や河などの名を通称名にしていたようですね。

趙州の町には隋の煬帝ようだいが作ったという立派な石橋がありました。現在もその橋が残っていて、観光の名所になっているそうです。

趙州さんは、ヨボヨボの貧相なお姿で、とても悟りを開いた偉大な禅者のようには見えなかったそうです(絵像が残っていますが、痩せてお猿さんのようなお顔で、猫背でいらっしゃったようです)。弟子も十人に満たなかったそうです。

そんなみすぼらしいお姿に失望した修行僧が、ワザワザ遠くからやって来たのにガッカリしたと、趙州さんに面と向って愚痴ぐちっているわけですね。

それに対して、「君は私の外観だけを見て私を非難しているが、本当の私をズバリ見抜けないんだよ」と言います。

では、趙州さんのいのちのズバリ本質とはどんなものなのでしょう?

それが、「ロバも渡すし、馬も渡すのさ」です。

私は君のように、人をこの人は素晴らしい駿馬、この人はダメなロバだなどと差別して、通したり、通さなかったりしたりしないのさ。
私は、すべての人をそのまま受け入れて抱きしめるぞ。そうしてどの人も残らず「安らぎの向こう岸」へと渡してあげるのさ。そう勉めるのが大乗菩薩の道というものじゃないだろうかね。

『趙州録』の中にも、同じ問答が収録されていて、最後の趙州さんの答えが「ロバも渡すし、馬も渡すのさ」ではなく、「さあ通れ、さあ通れ(過来、過来)」となっています。
この答えも素敵ですね。

どんな人でもやって来い。
ネコも杓子しゃくしも大歓迎!
私をドンドン踏み越えて
喜びの彼岸へ行ってくれ!

【公案2】趙州地獄

趙州さんのもとに檀家のお婆さんがやってきて質問しました。
「和尚様、あなたは死んだらどこに行かれますか」
「ワシは死んだら地獄にゆく」
「エッ、長年苦労して修行して来られたのに、死んだら地獄なんですか」
「ワシが先に地獄に行って準備して待っておいてやらないと、婆さん、あんたが来た時に困るじゃろう」(趙州録)


解説

これもいい問答ですね。檀家のお婆さん、アンタのためなら地獄にでもおもむいて救ってあげるよ。そんな覚悟がしっかり定まった方が大乗菩薩でしたね。趙州さんの師匠の南泉禅師は「ワシは死んだら檀家の家に牛に生まれ変わって、ご恩返しをする」とおっしゃっておられたそうです。

(公案3)趙州四門しもん

趙州さんにある僧が質問しました。
「趙州とは、いったい何なんですか」
趙州さんは答えました。
東門とうもん西門さいもん南門なんもん北門ほくもん
僧は言います。
「いやいや、私はその趙州についてたずねているのではありませんよ」
趙州さんは言います。
「じゃあ、どの趙州について問うているのかな」(碧巌録第九則)


解説

この僧の質問は、趙州さんの悟りの境地はどうなんですかと質問しているわけですね。
しかし、趙州さんが「趙州」を町の名だと勘違いして答えたら、それを笑いものにしてやろうという魂胆もひそめた質問なわけです。

それに対して、趙州さんは「東門、西門、南門、北門」と答えました。

唐の時代の町はすべて城壁で囲まれていて、東西南北に門があるわけです。ですから、趙州さんはその趙州の町の様子を述べたんだと見ることも出来ますね。
それで、この僧は『そら、引っかかったぞ!』と、「その趙州(町)をたずねているんじゃありませんよ」と、やり込めたと喜んだわけです。

しかし、趙州さんの解答は町の光景を記述したものではないのです。 
趙州さんは自身の悟りとはどうなものかを、町の光景に託して述べているわけです。
ですから、僧は自分が仕掛けたワナに自分が引っかかってしまったというわけですね。

やはり、趙州さんてすごい方ですね。ワナからサラッと身をかわして、ワナを仕掛けた本人をワナに追い込んでゆくのですからね。

趙州さんの「東門、西門、南門、北門」という答えはなかなか面白いですね。
これにも二重のワナがかかっていて、その解釈によって、人のいのちの傾向性が分かります。

「門」は「閉ざし、拒絶するもの」ですか、それとも「開き、通すもの」ですか。あなたはどちらだと感じますか。

私の若い頃は、「門」は閉ざすものとしか思えませんでした。東西南北すべての方向の行く手が阻まれていて、将来がまったく見通せず、息(生き)苦しかったものです。

夏目漱石の『門』でも、主人公が、自分には禅寺の門は閉ざされていて通れないと、救いを断念して帰ってゆく光景が描かれていましたね。

思い切って死ぬ覚悟で「門」にぶつかってゆけば、「関門」は不思議や「自動扉」になって、行く道、行く道、次々門は開いてゆくものなのですが、ウジウジ思い悩むインテリさんは、そのバカになる「思いっ切り」がないのです。
 
趙州さんの「門」は、もちろんのこと「開かれた門」です。東西南北どの方向にも開かれていて、「どんな人でも分け隔てしないよ。さあ、遠慮しないでドンドンやっといで」という「開放の門」です。

しかし、この質問の僧は、心を開いて、謙虚に趙州さんにぶつかってゆこうとしないで、ワナを仕掛けようなんていう策略を弄したので、せっかくの趙州さんの「開かれた門」が、「閉ざす門」と化してしまったのです。

観音経は、法華経の第25章(品)で、正式名は「観世音菩薩普門ふもんぼん」と言います。
観音様には十一のお顔があって、あらゆる方向に顔を向けて、その温かい眼差しであらゆる人を平等に救済されます。
あらゆる方向と人に救いの門戸を開いておられるから「普門」なのです。 
趙州さんの悟りの境地は、この「普門」ですね。「ロバも渡すし、ウマも渡す」のです。

(公案4)趙州草鞋そうあい

趙州さんの師匠は南泉禅師です。
ある時、南泉さんの道場の弟子達が、一匹のネコのことで、二手に分かれて言い争いをしていました。
そこに師匠の南泉さんがやってきて、ネコを捕まえて小刀を振り上げ「さあ、何か一言言ってみよ。言えなかったらネコを切り捨ててしまうぞ」と言いました。
ところが、弟子達はすっかり固まってしまって沈黙してしまいました。
南泉さんは、ついにネコを切り捨ててしまったそうです。

晩になって、用事で外出していた趙州さんが道場に帰ってきました。
南泉さんは、昼にあったネコの事件を趙州さんに話しました。
すると、趙州さんは、履いていた草鞋わらじを頭の上に載せてスタスタ部屋から出て行ってしまいました。
南泉さんは言いました。「惜しいことだった。もし趙州がいたら、ネコは救われただろうに…」 


解説

今の事態、現象に意識が固着してしまえば、東西南北の門は閉ざされ、道が見えなくなります。そんな状態が「固まってしまい、何も出来なくなる」状態です。

そんな時、どうすれば東西南北の門が開けて、自由自在に適切な行動がとれるのかというと、「気(意識の焦点)を現象から逸らしたらいい」のです。

ネコのいのちが関わる切羽詰った緊張の状況で、一人でもフッとその場から全員の気を逸らすような行動が出来たなら、一気に東西南北の門が開いたはずです。

たとえば、「迷子の迷子の子猫ちゃん…」と、大声で歌い始めて踊ってもいいでしょう。そうしたら、南泉さんは大笑いしてネコを手放したはずです。

趙州さんの「草鞋を頭の上においてスタスタ歩いていった」という行動も、その行動自体になにか意味が隠されているというわけではありません。

その行動の意味を解釈しはじめる人がいたとしたら、その人はやはり現象に捉われて固着してしまっているのです。そんな人では、ネコの子一匹も救うことは出来ません。

五井昌久先生のもとに青年がやってきて、「東西南北、どちらを向いても壁が迫って来ていて、どうすればいいか分かりません」と訴えました。
すると五井先生は、天を指差して、明るい声でおっしゃいました。
「天が開いてるよ!」

その青年の切羽詰った気は、ふと現象から逸れて天に向い、一気に解放されたでしょうね。なんとも素晴らしい解答ですね。

あるカウンセラーさんのところに、不登校の息子のことで悩んでいるお母さんが相談にやってきました。
そのカウンセラーさんは言いました。
「いい作戦を思いつきました。お母さん、私の言う通りにしますか」
「はい、もちろんです。先生が頼りです。先生のおっしゃる通りにします」
「じゃあ、こうしましょう。この部屋を出たらまず美容室に行ってください。髪の手入れをしましょう。
次にお気に入りの洋服店にいって、あなたが一番気に入った服を一着購入しましょう。
それらが終わってから家に帰ること!」

このお母さんが、その先生の作戦通りに行動したところ、不思議なことには、息子さんが学校に行くようになったそうです。

「気をそらす」というだけで、このお母さんや息子さんの住む世界を一変してしまうことが出来たのですね。

本当は、「閉ざす門」なんてどこにもないのですから、ふと気が逸れると、「閉ざす門」の幻想がただちに消滅するのです。

図書館にお勤めのTさんという、坐禅会のお仲間がいらっしゃいます。
コロナ対策の会議で、意見が二つに割れてピリピリした雰囲気になっていました。
そんな切羽詰まった状況で、Tさんがユッタリと「昨日、閲覧室にスズメバチが迷い込んで来まして…」と語り始めた途端、参加者全員の顔のこわばりがほどけて、ホッとした様子でした。

それからは、意見の対立が解消して、会議はなごやかな雰囲気に変わり、全員一致で方針が決まったそうです。

会議が終わった後、Tさんは両派の職員さんから「助かりました、ありがとうございました」と感謝されたそうです。

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