難陀の場合-永平知事清規を読む(1)-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信183号」の内容を再編集して掲載させていただいています。

道元禅師に『日本国越前永平寺知事清規ちじしんぎ』という著作があります。

「知事」とは、禅の道場で、僧たちが順調に修行生活をおくることが出来るようにと、各自が分担して「役割」を勤めるわけですが、その役割のことを「知事」と言いました。

「知」とは、「掌る、役割を勤める」という意味です。「事」は「さまざまな事(用事、物事、事件)」のことですね。

今日、都道府県の首長のことを「知事」と呼ぶのは、この禅寺の役職の呼び名から来ているのかも知れません。

知事は「六知事」と言って、大きく分けて六つの役職があります。それは、「都寺つうす」、「監寺かんす」、「副寺ふうす」、「維那いの」、「典座てんぞ」、「直歳しっすい」です。

都寺つうす」、「監寺かんす」、「副寺ふうす」は、管理職です。学校でいうなら教頭、副校長職のことです(住職が校長にあたる)。

古くは「監寺(院)」だけだったのですが、禅が興隆して、道場の規模が修行僧何千人を抱えるほどになると、一人ではとても全体を管理掌握出来ないので、三人で役割を分担するようになったのです。道場内の事だけでなく、国や役所や檀家や他の寺などとの折衝や用務などの対外的な仕事も沢山あります。

維那いの」は、修行僧たちの生活指導を担当します。

典座てんぞ」とは、調理係のことです。大規模な道場では、毎回何千食分も調理するのですから大変です。もちろんその場合は、民間の料理人を多数採用して、彼らをリードし、全体を管理する必要も生じてきます。

直歳しっすい」とは、道場に関わる作務さむ(労働作業)全般を掌る役割で、たとえば、破損箇所を修理したり、新しく施設を設けたり、道場付属の農園を耕作管理したり、敷地内の警備をするのもこの「直歳」の役割です。大規模な道場の場合は、労働者や大工や農夫を多数雇って差配する必要が生じてきます。

清規しんぎ」というのは、「行動規則、ルール」のことで、「知事清規」の場合は、知事職がどのようにその職務を果たして行けばよいかを示したものです。

普通、「清規」といえば、朝起きてから夜就寝するまでの行動を細かく定めたもの、どういう職務をどう果たすべきかを厳格に定めた行動マニュアルといったものなのですが、この道元さんの「知事清規」は、中国本土のそれらと少し違うようです。
 
大半が、先輩方がその職に就いていた時、どのように行動されたかという逸話で占められていて、行動マニュアルといった内容は少なく、知事を務める者の心構え、「ハート」の部分を強調して示しておられるように思います。

しかし、それも先人の美しくも清らかな聖者的行動の記述というものではなく、妙に人間くさい、泥くさい、汗くさいドラマが次々示されてゆきます。

これは、なぜなんだろう。道元さんはなぜこんな作品を書かれたのだろうと、はじめは分からなかったのですが、今なら分かります。

集団生活は決してきれい事ばかりではありません。後世になって次第に美化されていって出来上がった典型的な聖人君子なんて、本当はどこにもいなくて、地上に生きている以上、みんな一クセも二クセもある、限界を持った人間たちだったのです。 

そんなデコボコがあるクセモノたちが一同に会して一緒に生活しようというのですから、それはそれはいろんな事、想像もつかないような途方もない事が次々起こってきます。

しかし、そんなクセの多い、ヒネ曲がった僧が、これらの役職を勤めることに四苦八苦しながら、やがて大きく人間的に成長して、次の世代の指導者となっていったのです。

こんな混沌の場でワイワイガヤガヤ、揉みに揉まれたからこそ、先人達は大きく成長してゆくことが出来たのです。

その道場が、来る前に頭で思い描いていた理想像からは大きくかけ離れていても、そこから逃げ出してはいけないよ。そんなつらい環境に踏みとどまって根を張ってゆけばこそ、きっと大樹に成長出来るのだよ。 道元さんは、きっと弟子達(そして、私たち)にそう訴えたかったのだと思います。

はじめに、難陀ナンダ の逸話が載せられています(『胎蔵たいぞう経』よりの引用)。

難陀は釈迦の異母弟で、カビラエ国の王子でした。
ある日(王に即位する戴冠式の前日であったそうです)、お釈迦様が托鉢たくはつ(修行僧が食事や金銭を求めて市街を巡ること)で王城にやってきました。難陀の出家の時が来たことを直覚したのでやって来られたのです。

難陀はお釈迦様が来たことを知り、鉢を受け取り、食事を盛ってお釈迦様のもとに持ってゆこうとしました。

すると、女の直感ですね。妻の孫陀利ソンダリが袖を引いて行かせないのです。

難陀は「鉢をお釈迦様にお渡しするだけだよ。すぐ戻るから」と言います。すると、孫陀利は「じゃあ、このお化粧が乾く前に帰ってきてね。きっとよ」と言います。

難陀が鉢を持って玄関から出ると、お釈迦様がいらっしゃいません。すると、そこに阿難アナンが托鉢にやってきます。阿難は、お釈迦様の従弟いとこで、その当時、すでに出家してお釈迦様の侍者を勤めていました。

難陀は、お釈迦様の鉢を、阿難に託そうとします。
阿難は、その鉢は誰の鉢なのかと訊ねます。
難陀はこれはお釈迦様のモノだけれど、お釈迦様がいらっしゃらないので……と答えます。
すると阿難は、お釈迦様の鉢はお釈迦様に直接手渡さねばと言います。

そこで、難陀が四方を見渡すと、お釈迦様がゆっくり歩んでおられるお姿が見えました。

そこで、走って追いかけますが、なぜかどうしても近づけないのです。そして、とうとう道場まで来てしまいました。

お釈迦様は、弟子に難陀の頭を剃れと命じます。

弟子が剃刀を持って難陀に近づくと、難陀は怒っていいます。「刃物を持って王位継承者の神聖な頭に臨んではいかん」(ずいぶん威張っているのですね)。

頭を剃られながら思います。『まあ、今はお釈迦様のお命じになったのに従っておこう。頭を剃られても、夕方にはこっそり王城に帰ればいいことだ』

ところが、こっそり帰ろうとすると、どの道をとっても、前に崖や大穴が突然現われて、それ以上前進出来なくなるのです。それでとうとう帰ることをあきらめます。 

お釈迦様は阿難に言います。「難陀を知事に任命する」。阿難はそのお釈迦様の言葉を難陀に告げます。

難陀は質問します。「知事とはどんなことをする役割なんだろう」

阿難は言います。「道場内のあれこれを掌る役目だよ。
たとえば、僧たちが朝、托鉢に出かければ、道場内を掃除し、水を撒き、薪を用意し、牛糞を除き、盗難に遭わぬように門戸を閉じる。僧達が托鉢から帰ってくると門戸を開ける。
晩になり、皆が寝静まったあとで便所掃除をするのだよ」(知事が一人で何もかも担当しているので、まだ教団が小規模な、初期の段階の話であろうと思われますね)。

僧達が托鉢に出かけて、誰もいなくなったら王城に帰ろうと隙を狙います。

さあ、みんな出かけたと、門戸を閉めて出かけようとします。
東の門を閉じると、なぜか西の門がさっと開いてしまいます。西の門を閉じると、東の門がさっと開いてしまいます。これではキリがありません。
そして思います。『まあいいか。たとえ盗難にあったとしても、僕が王に即位すれば、いくらでも、これより立派な道場(寺)をいっぱい建ててやるから。このまま帰ってしまおう』

帰り道に大きな道を行けば、お釈迦様が托鉢から帰って来るのに出会うかもしれないと、小道を選んで進みます。
すると、何という事でしょう。向こうからお釈迦様がやって来るではありませんか。
必死で木陰に隠れますが、急に風が吹いてきて枝葉を動かし、見つかってしまいます。

お釈迦様は訊ねます。「どうして帰りたいのか」
難陀は言います。「妻の孫陀利が恋しいのです」(正直でよろしい)。

お釈迦様は訊ねます。「お前は香酔山こうすいせんを見たことがあるか」
難陀「いいえ、ありません」

お釈迦様は衣で難陀を包んで、難陀の意識を一気に香酔山まで移動させます。

果物が生った木が生えている(その果実の香りをかぐと酔ったようにふらふらになるので香酔山という)のが見えます。
そして、その木の下には、メスザルがいて、そのサルの顔は焼け爛れて、両目とも潰れて見えなくなっています。

釈迦が聞きます。「このメスザルと孫陀利を比べるとどうか」
難陀は答えます。「そりゃあ、比べものになりません」

釈迦が聞きます。「お前は天界を見たことがあるのか」
難陀は答えます。「いいえ、見たことはありません」

お釈迦様は、再び衣で難陀を包んで、難陀の意識を天界に移動させます。

難陀は天界の庭園である歓喜園や交合園などを巡ります(名前からして怪しげな庭園ですね。難陀の心境相応の擬似天界ですね)。

すると、ある所にとても美しく、内側から光を放つような天女が一人ポツンと淋しそうにしているのです。「どうしたのですか」と訊ねると天女は答えます。

「お釈迦様の弟に難陀という方がいます。その方が仏弟子となって、持戒じかい(戒律をしっかり護ること)をやり遂げたら、その功徳によって天界に生まれて私の夫となる予定なのです。それで私はここで難陀さまがお出でになるのを待っているのです」

地上界に帰ってきた難陀にお釈迦様が聞きます。「その天女と孫陀利を比べるとどうか」
難陀は答えます。「その天女と孫陀利を比べるのは、孫陀利と香酔山にいたメスザルを比べるようなものです(比べものになりません)」(この薄情者め!)

お釈迦様は言います。「出家して、持戒精進すれば、その功徳で必ず天界に行けるのだよ」
それを聞いて、難陀は戒律を護り、真剣に修行するようになりました。

ところが、お釈迦様は弟子達に言います。
「お前達は難陀と同席してはいけない」
それ以来、難陀が席に座ると、隣の席の僧は必ず立ち上がって別の席に移るようになりました。
難陀は次第に精神的に追い込まれてゆきます。

ある時、阿難が席についているのを見つけました。『阿難は従兄弟だから、僕に対して冷たい行動はとらないだろう』と、隣の席に座ります。すると、阿難は席を立ち、去ろうとしました。
難陀は叫びます。「君は従兄弟なのに、僕を見捨てるつもりか!」

阿難は戻ってきて言います。「君は僕たちと同じ修行をしているように見えるが、僕たちとは『志(目指すゴール)』が違うのだよ。だから僕たちは君と同席できない」

難陀は訊ねます。「どこが違うのか」
阿難は答えます。「君は天界に生じることを目指して修行しているんだろう」
難陀は答えます。「もちろん、そうだよ」

阿難は言います。「僕たちはそうではないんだよ。僕たちは『胎蔵たいぞう』を悟り、『胎蔵世界』をこの世に実現するために修行しているんだよ。決して自分だけがしあわせになろうなんて思っていないんだよ」

難陀は訊ねます。「君たちが目指す『胎蔵』ってどんなものなんだい」

阿難は答えます。「世界中の人たちや動物、植物たちは、実は、同じ母親(大宇宙生命)の胎内で大切に育てられ、生み出された兄弟姉妹のいのちたちなんだよ。

それなのに、一体のいのちであることを忘れてしまって、自分だけのしあわせを求めて、他が不幸になってもそれを顧みないようになってしまったんだ。それは間違っているし、その路線の延長上には、人類の破滅、滅亡があるだけなんだ。

だから、僕たちは自他一体といういのちの真理をしっかり自覚し、世界中の人にその真理を伝えてゆかねばならないんだよ。時間はかかるだろうけれど、生まれ変わり、死に変わって、ついに一人残らず自他一体のいのちであることを自覚し、ついに『胎蔵世界』をこの地上に実現するまで何度も地上世界に戻って歩み続けるという志のもとに、僕たちは修行しているんだよ」

阿難の話を聞いて、難陀はますます悩みを深めます。
そして、お釈迦様に会いにゆきます。

お釈迦様は訊ねます。「お前は地獄界を見たことがあるか」
「いいえありません」
 
お釈迦様は、衣で難陀を包んで、難陀の意識を地獄界に移動させます。

獄卒の拷問で苦しめられている人が沢山いるという悲惨な光景が見えてきました。 

あるところにヒマそうにしている獄卒がいます。

難陀は「なぜ退屈そうにしているのですか」と訊ねます。
獄卒が答えます。「釈迦の弟に難陀というヤツがいるんだけれど、あいつは天界行きを狙って戒律を護ったり、修行したりしている。その功徳で天界に生まれるけれど、やがて功徳のエネルギーが尽きてしまう(個人もちの功徳は有限量なのです)と地獄界に落ちてくる。その難陀の矯正をワシが担当することになっているんだ。
だから、ここであいつが落ちて来るのを待っているのさ」

難陀は地獄界から帰ってくると、身を震わし、涙を流して、自分だけのしあわせのために修行してきたこと、その志が誤りであったことを、お釈迦様に懺悔します。

本当は一体のいのちなのだから、他を押しのけて自分だけがしあわせなんて有り得ない。
全体がしあわせになれた時、自分も本当の意味でしあわせになれるんだと気づきましたと告げます。

そんな難陀に対して、お釈迦様は一体のいのち(『胎蔵』)の真理について詳しく説き示し、難陀は、本当の意味で発心し修行して、ついに自他一体の真理を悟ることが出来たということです。 

(註)空海さんは『胎蔵界たいぞうかい曼荼羅マンダラ』を日本に伝来しました。これは、根源のいのちの母胎に仏や菩薩や天人だけでなく、地獄の住人に到るまでのあらゆるいのちが抱擁され、護られ、養われている様を図像にしたものです。

道元さんの『知事清規』の最初の逸話がこの難陀の話です。

ダメ人間の典型のような難陀が、道場で揉まれて苦しんでいるうちに、やがて、人生の本当の目標に目覚め、素晴らしい成長を遂げて、ついに次世代の弟子達を育て、自他一体の真理を多くの人に伝える役割を見事に果たすようになるという姿が示されています。

お釈迦様がいらっしゃった時の弟子集団は、きっとみんな素晴らしい聖者たちだったに違いないと思いがちですが、決してそうではなかったのです。

戒律を示した仏典を読むと、一条、一条の戒律がなぜ制定されたのか、それにまつわる僧達が起こした事件や、考えられないような破廉恥行為が赤裸々に記されています。彼らが決して私たちと別格の人たちではなかったのだということが分かります。

この地上世界にふさわしいから、ここに生まれてきたのですから、みんなドングリの背比べで、大差ないのです。

人としての発達もデコボコで、ある人には簡単にできることが、なぜか私にはとても難しくて出来そうもないのです。
けれども、そんな私が、あの人がどうしても出来ないことを、いとも簡単にやれたりします。

とにかく、まずそんなデコボコのままの自分を認め、受け入れて、そのソコから、それでもゴールをめざして一歩ずつ歩んでゆけばいいんだよと、道元さんは激励して下さっているのだなあと、私はこの難陀の逸話を読んで感じました。

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