玄則の場合-永平知事清規を読む(3)-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信185号」の内容を再編集して掲載させていただいています。

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玄則げんそくさんが法眼ほうげん禅師の道場に入門して三年目になりました。人望があったので、今では監寺かんす(道場の管理職)を勤めるほどになりました。

無難に仕事をこなして、これといった失敗はありません。悪い評判も法眼さんの耳には入ってきません。修行ぶりも行過ぎることもなく、サボることもなく、まったく問題ありません。

しかし、法眼さんから見ると、それこそが彼の問題なのです。
失敗はないけれど、仕事ぶりにも、修行にも、努力工夫、試行錯誤が見られないのです。だから、苦悩も失敗も挫折も見られないわけです。

若いときは、苦悩したり、行過ぎたり、脱線したり、涙を流したり、汗を流したりしながら、いのちは進化してゆくものです。そんなつらい経験こそが尊いいのちの財産となるのです。若年寄のように、何事にも程よい中庸なんていう若者は、とても気味が悪いですね。

そこで、法眼さんは玄則を呼び出して訊ねました。「君はこの道場に来て何年になるんだ」

玄則「はい、足掛け三年になります」

法眼「その間、君は一度もワシに禅の真理について質問したことがないが、それはいったいどうしてなんだ」

玄則「はい、今まで誰にも黙っていましたが、師匠には嘘はつけないので本当のことを言います。実は私はすでに悟っているのです。

青峰禅師の道場にいた時、私は師にこう尋ねました。『私の真の自己とは、どういうものでしょうか』
それに対して、師は『丙丁童子来求火へいていどうじらいぐか(丙丁童子がやって来て火を求める)』とおっしゃいました」

法眼「いい言葉だ。しかし、君はその言葉の真意を誤解しているだろう。この言葉はどんな意味だと思う?」

玄則「丙丁はひのえ(火の兄)とひのと(火の弟)です。つまり、私(童子=青年)のいのちの本質は火(仏性)なのに、そのことを忘れて、君は外側に火を捜し求めている。それは間違いで、君は、君でありさえすればそれでいいんだよと、こうおっしゃったんだと気づいて、それ以来私は、ホッとして自分に落ち着くことができました。もう何も外に求めるものがなくなり、それ以来、一切の悩みが無くなりました」

法眼「それで分かった。君はその青峰禅師の言葉を誤解したんだよ。仏法がもし、君が解釈した程度のものであるならば、今日まで伝わって来ていないだろう」

その法眼の、自分の悟りを否定する言葉に憤って、玄則はついに道場を出ました。そして、煩悶しながら歩いていましたが、ついにこう考えました。『法眼という方は五百人の弟子を擁する、禅の世界でも評価が高いお方だ。そんな方が君は間違っているとおっしゃるのだから、きっと私のどこかに到らないところがあるのだろう』と。そして、法眼道場に引き返しました。

道場に帰って、法眼さんの方丈(部屋)に行き、懺悔さんげしました。

法眼さんは「さあ、なんでも問うてみよ」と言います。

玄則は「私の真の自己とは、どういうものでしょうか」と問います。

法眼さんは「丙丁へいてい童子どうじらい」と答えました。

玄則は、その法眼さんの言葉を聞いた途端、本物の悟り(いのちの悟り)を得ることが出来たのです。

仏性とは『どこまでも高く育とう、いのちの領域を限りなく広げてゆこうとする激しい意志』のことでしたね。

そんな激しい火種は、自分の周囲の環境の尽くを燃料にして、火をどこまでも高く燃え立たせ、どこまでも広く燃え広がろうとします。それが火の本能ですし、さらに、いのちの火は、ただ今の自分に必要な燃料となる環境をさえ引き寄せようとするのです。

そんな激しいいのちの情熱が「仏性」なのに、『ボクはもう悟っていて、何も外に求めるものはないんだ』などと言って、それから後は余生で、適当に、無難に人生を渡ってゆくなどというはずがないのです。
そんな人はまだ「火」が「火」になっていない。自分が本当の自分になりきっていないのです。

「火」だからこそ、どこまでも「火」を激しく追及してやみません。やってくる環境と真剣勝負で関わって、それを燃料にしていかざるを得ません。

ユーターンして、法眼さんのもとに帰ってきた玄則さんは、これまでの自己免許のプライドを捨て去って、道をひたすら求めるただの一介の学生にもどって、無心になって、命がけで法眼さんに質問したのです。

そして、その真剣で、誠実な態度こそが、「丙丁童子来求火」の姿、つまり、「火」だからこそ「火」を求めて止まない、という姿であったのです。

そして、そのどこまでも進化向上をめざして限りなく歩み続けようとする姿勢こそが、「いのちの悟り(覚悟)」であったのです。

私のこれまでの経験では、私のもとに道を求めていらっしゃる方は、真面目で、能力は高いのですが、なぜか自信がなくて、自己否定しがちな人が多いです。

「類は類をもって集まる」といいますが、私もそういうタイプの人間なので、そうなってしまうのでしょうね。

そんなタイプの人に指導するときは、頑張れ、負けるな、などと指導すれば、ますますそうやり切れない自分に絶望して、落ち込んでしまいます。

ですから、そんな方は、そのままでいいんですよ、あなたがあなたであるということは、何と尊い素晴らしいことなんでしょう。あなたがありのままのあなたであることを認め、受け入れ、許し、愛することが出来るようになりましょうねといざないます。どう変われ、どう向上せよなどとは言いません。

このように、自分で自分を縛っていた自己限定の思い込みを解いて楽にしてあげることだけに専念していれば、やがて、その人の心の奥に閉じ込められていた「火(仏性・情熱)」が表に顔を出すようになるのです。そして、成長するためにふさわしい環境を次々引き寄せて、どんどん「火」を大きくしてゆきます。

そうなったら、後はその人のいのちの本能に任せればいいのです。

もう、大敬さんが用意した植木鉢なんて突き破って、大地にしっかり根ざした、その人独自の大樹に育ってゆくはずですから。

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