白隠禅師坐禅和讃講義-その6-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

白隠禅師はくいんぜんじ 坐禅和讃 ざぜんわさん 

三昧無礙さんまいむげそらひろく 四智圓明しちゑんみょうつきさえん

『三昧』とは、『結ばれること、ひとつになること』をいいます。大乗の坐禅をすると(大らかに坐ると)、自分という仕切りが解けて、大宇宙さんと一体化し、すべてのいのちたちと一つになります。『いや自分はそうなっていない』と我を張っても、それはその人のちっぽけな頭の思い込みにすぎないのです。坐禅という形をとり、それに身を任せ、降参したら、自ずとそうなるから有難いのです。

『無礙』とは、『妨げなし』という意味で、ひとつであり、生き通しのいのちの振る舞いを妨げるいかなる障害物も、仕切りも、囲いも、固まりも、もはや存在しないのです。

『四智』とは、『四つの知恵』のことで、それは
大円鏡智だいえんきょうち
平等性智びょうどうしょうち
妙観察智みょうかんさつち
成所作智じょうしょさち
のことです。この四つの知恵はひとついのちの悟りを得た人には自ずと備わります。

大円鏡智だいえんきょうち』とは、『いのちはひとつなりと自覚する知恵』のことです。

鏡に万物が映っているように、すべての事物がくっきり認識できるけれど、どのモノも、どの事件も鏡の面に固着してしまうということはありません。パッと現れては、サッと消え、何も残らないからこそ、いつもくっきりと世界全体の像が、アリアリと見通せるのです。そして、いのちの本体は、鏡面に現れる像なのではなく、どんな像を映し出しても決して変化しない宇宙全体を映し出している、『大きな円い鏡』こそがいのちの本体なんだと自覚してゆるぎない知恵が『大円鏡智だいえんきょうち』です。

平等性智びょうどうしょうち』とは、本来一体のいのちと知った上は、どのいのちも、大宇宙さんと等しい、無限価値、無上価値のものなのですから、上下、尊卑の差別はないわけです。ですから、悟りの眼から見ると、すべてのいのちが平等に輝いて、尊いのです。鏡面に大きい、あるいは小さい像を映し出しても、いずれも本質は宇宙一杯に輝く鏡そのものなのです。そのことを知って、もはや上下、尊卑、大小、損得などの氷の観念に振り回されなくなって現れてくる自在の知恵が『平等性智びょうどうしょうち』です。

次は『妙観察智みょうかんさつち』です。鏡面に現れた像(個々のいのち)は千差万別で、ひとついのちの悟り(大円鏡智)を得た時、それぞれのいのちの特徴、違いがくっきりと映し出されます。そして、それぞれの、個々のいのちの違いを知り、これまでたどってきたいのちの履歴を知って、どのように導いてあげれば、そのいのちが順調に生長してゆけるのか分かるようになります。そして、適切な指導をしてあげることが出来るようになります。この知恵が『妙観察智みょうかんさつち』です。

最後は『成所作智じょうしょさち』です。これは、以上の三つの知恵を、頭でいろいろ計画的に使い分けるというのでなく、身の知恵として、適当なときに、適切な形で身が勝手に動いて(『所作』)、自然に巧みに次々使ってゆける(『成所作』)ようになるというのです。頭は大宇宙にお任せして自分はもう知るということが一切なく、観察するということが一切なく、それでも身が勝手に、適切に動いて、自ずと人のため、世界のために最善の行動が取れてゆくのです。

ときなにをかもとむべき 寂滅現前じゃくめつげんぜんするゆゑに

さて、こうなったら他に何を求める必要がありましょうか。

刻々、古い世界と旧いいのちが滅して(『寂滅』)、刻々新しいいのちと世界が新生誕生するという、天地創造の厳粛な現場(『今・ココ』)に、世界の主人公として立ち会っているのです。常に、生まれたてでまっ新な、キラキラ輝いている世界に住まうのです。何と素晴らしいことではないでしょうか。

當所即とうしょすなわ蓮華国れんげこく すなわほとけなり

さて、そうなったら、此処(『當所』)は『蓮華国(世界)』です。この『蓮華世界』とは、法華経(正式名は『妙法蓮華経』)の理想が実現した世界ということですが、ではそれはどんな世界なのでしょうか。そのことは『妙法蓮華経』という経題が教えてくれます。

『妙』とは『美しい、素晴らしい!』という感嘆詞です。何が素晴らしいのかというと、

『法』が素晴らしいというのです。仏教で言う『法』とは、個々のいのちのそれぞれのことを言います。

どの個々のいのちも自分の力でいのちを得たのではありません。大宇宙さんがよく考え、どうしても必要だと決断して、宇宙全体が動いて創りだした、宇宙法的存在なのです。ですから、どのいのちも欠かすことが出来ない、絶対の存在なのであり、唯一絶対の個性を輝かせている、絶妙の存在なのです。それが、『妙法!(君は美しい!)』です。

『蓮華』とは、漢字の構成を分析すれば分かりますが、『連なる花』です。蓮の花が池に咲いています。別々の花が池の水面を飾っているように見えますが、水に潜ってそれぞれの茎をたどっていくと、ひとつの同じ蓮根(ひとつに連なっている根っこ)に行き着きます。どの花も実はひとつのいのちから水面に出現して咲いているのでした。

このように、『蓮華』は『個々のいのちは、実は個々別々の、孤独ないのちなのではなく、ひとつながりの連帯したいのちなんだ』という、ひとついのちの真理を象徴しているのです。

そのように、『蓮華国れんげこく(世界)』とは、それぞれのいのちが、本来ひとついのちであるとしっかり自覚して、しかもその個々別々で、唯一絶対の個性を思う存分発揮して精一杯咲いている。しかし、それらの個々のいのちの活動がてんでバラバラで、ガツン、ガツンぶつかったり、対立したりすることにはならず、自分を生かすことが自ずと全体のいのちを生かすことになるような、そんな深い調和ある行動が取れている、そういう大調和の世界こそが『蓮華国れんげこく(世界)』なのです。

自分が悟って、囲いを解くことができれば、世界中のあらゆる囲い、仕切り、壁が溶けてしまいます。そして、すべての人と、あらゆるモノと、遮るものなく、いのち通いあう世界が開けるのです。

その時、あなたは仏様です。あなただけでなく、世界中のあらゆる存在(いのちあるモノも、いのちなきモノたちも)が同時に仏様となります。

とはいっても、みんな頭が天然パーマとなり、眉間にいぼが出来、頭のてっぺんにタンコブが出来て、お袈裟をきて、シャナリ、シャナリ歩くようになるというのではありません。犬はあくまで元気な犬になって走り回って、電信柱におしっこしますし、ネコはぬくぬくコタツで丸くなり、呼ぶと喉をゴロゴロいわせて返事をします。あなたもこれまでどうり、ウロウロオロオロ生きてゆくだけですが、これからは、あなたが泣くと宇宙全体もいのちを震わせて一緒に泣いてくれます。あなたが笑うときは、雲も、空も、お月様も、みんな一緒にスクラムを組んで、高らかに哄笑するのです。

山笑い 月笑う夜の この宴       

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