因果律・輪廻転生について

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信190号」の内容を再編集して掲載しています。

ある禅の会で「輪廻りんね転生てんしょうの目的意義は?」という質問がありました。
 
たとえば、AさんがBさんを殺したとします。そして、今生こんじょうにおいては、その行為に対する反省や懺悔がまったくなかったとします。

そんなAさんは、肉体生命を終えると、仏教でいうと、「中有ちゅうう」(今生と来生らいしょうとの間の中間的猶予期間)という状態に入ります。

そこでは、今生での人生経験の総括をします。自分一人で総括出来るレベルの人は少ないので、上の界の「光の方々」が手助けします。

今生での人生の一コマ、一コマを克明に再体験してゆきます。
「中有」での意識は、地上界に比べると、ずいぶんシャープになっているので、克明な再体験が短時間で行えるのです。

時間的な克明さばかりではなく、空間的な克明さもその再体験作業には加わってきます。

たとえば、AさんがBさんを殺したという場面を再体験する場合は、その時、殺されるBさんがどういう気持ちであったか、それを目撃した周囲の人たちがどんな気持ちであったか、Aさん、Bさんの家族がそれぞれどう感じ、それから後、どんな人生をたどることになったかなど、この殺人という行為が、時間的空間的に及ぼしたすべての影響を同時に一気に体験するのです。

そして、再体験作業が終わると、サポートして下さっている「光の方々」と話し合います。

Aさんの今生での課題はどこにあったのか考えます。
来生ではその課題を克服するためにどんな人生をたどればいいかを考えます。
そして『私は次の生涯ではこういう人生をたどる』と自ら決断して、再び地上世界に戻ってくるのです。

魂のレベルが高い人の、次の生での人生軌道プランは大まかで、大半はその人の自主性に任されますが、Aさんのように、自分の都合だけで人を傷つけて反省もしないというような前世をおくった人の、来世での人生軌道はがっちり決められていて、自由度がほとんどありません。

これは、小学校や中学校では、校則が細かく決められて、行動できる範囲が狭くなっているけれど、大学生は自分の判断で自主的に行動することが求められるというのと似ています。

Aさんの場合は、その人生シナリオに、今度はAさんが殺されることになるという場面も含まれるかも知れません。
その殺人劇の相手はBさんの場合もあるし、Bさん以外の人の場合もあるでしょう。

もし、前世で殺されたBさんがAさんを深く恨んで、その恨みの念が肉体が亡くなっても解消しないで、ますます強くなるというほどであるならば、Bさんは次の生でもAさんと出会うことになり、今度はAさんとBさんが役割を変えて、BさんがAさんを殺してしまうことになるでしょう。

しかし、もしBさんの魂のレベルが高い場合は、この殺されるという体験によって、自らの過去の魂のひずみや重みを一挙にほどくことができて、魂は一層自由に、軽やかになるでしょう。

そうなれば、もうAさんとは住む世界がまったく違うので、次の人生でAさんと出会うということはありません。

そんな場合は、AさんはBさんではない人から殺されるというドラマが次の生涯で展開することになります。

さあ、以上の例で、輪廻転生の意味や目的が明らかになってきましたね。

魂の進化とは、自分のことしか考えられない、自分さえよければそれでいいという視野の狭い状態から、周りの人々の気持ちを思いやることが出来るようになる。人の身になって考え、行動できる視野が広い人間に成長するということです(最終的には、すべての人の気持ちが思いやられ、すべての人と一体化して地球次元の人類の進化は完了します)。

Bさんの気持ちを思いやれる人に成長するためには、今度はBさんの立場の経験をする必要があるというわけです。
これが因果律と輪廻転生が存在する理由です。

しかし、この因果律は「目には目を、歯には歯を」という報復のためのシステムではありません。

要するに、相手の立場からモノゴトを見、感じられる人間に育てるためにはたらく教育システムなので、罪を犯した人がもし、相手の心を思いやれるようになり、反省懺悔できるようになれば、来世で今度は犯罪の被害者になるという必要はもうありません。

また、「振り替えの理」という法則があって、罪を犯したことによって、来生で受けるはずの苦痛を、他の人の苦痛を取り去るボランティア的活動に従事する苦労で「振り替える」ことができます。

つまりは、人の痛みが分かり、手を差し伸べることが出来る人に育つのが、因果律と輪廻転生の目的なのですから。

また、対他者の行動でなくても、坐禅して意識レベルを上げ、意識がとどく視野を拡大することが出来ると、他者も自分の意識領域に入って、他者の意識の座に移行して、その座からモノゴトを見、体験できるようになるので、坐禅という行でも、過去世の罪を解消することが出来ます。

ですから、白隠さんの『坐禅和讃』には、「一坐の功をなす人も、積みし無量の罪ほろぶ」とあるのです。
これは坐禅の誇大広告ではなく、本当のことなのです。

以上、因果律と輪廻転生の話をしましたが、注意してほしいのは、これを人をおとしめるための材料に使わないでほしいということです。

レベルの低い宗教では、こういう事故に遭遇するのは、過去世でこんな罪を犯したから、こんな病気になるのは、こんな性格で、人に対してこういう接し方をしたからなどと責める材料にします。
そんなマネを決してしないようにしてください。

私たちはこれまでに限りない数の生涯を繰り返してきています。
その中で、沢山の魂のひずみ、ゆがみ、とどこおりを抱えています。

また、個人的な魂のひずみだけでなく、民族の魂のひずみ、人類の魂のひずみも抱えこんでいるということを忘れてはいけません。
そのどれかが表面化して現象として現れてきても不思議ではありません。
 
ですから、どんな事でも起こり得るんだ。
どんな事が出てきても、それは過去世における「私」が犯した罪の結果なのだから(この「私」には、民族や人類全体も含まれています)、「私」はそれから逃げないでしっかり受け止めようという覚悟だけは、しっかり持っておきましょう。

維摩ゆいまきょう』にはこんな話が載っています。
維摩が病床にあるのです。
お釈迦様の弟子達が見舞いに行きます。そして、「なぜあなたほどの方が、病気にならねばならないのですか」と尋ねます。
維摩は、「世界中の人々が病んでいるから、私は病んでいるんだ」と答えます。

意識レベルが向上して、多くの人といのちを共有するようになると、それらの人々の心と肉体のひずみは、また自分の心と身のひずみでもあるのです。

そういう「聖なる病い」に伏している方に、「あなたは過去世にこんな罪を犯したから、今、この病気を患っているんですよ」などと言えますか。

イエスさまは十字架にかけられ亡くなられました。
イエスさまは、人類が犯したすべての罪を「私の罪」として十字架上で肉体を抹消することによって解消されたのです。
そんなイエスさまに、「短命は過去世で殺生を繰り返したから」などと言えますか。

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