大地の春

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

ブログにお便りしてくださったTさんへの返事です。


Tさん

こんにちは、大敬です。お便り、ありがとうございました。

所属しておられた教団から出る決心をされたということ、さぞ精神的につらい葛藤を経られたことでしょう。

実は私も若い頃、あなたと同じような体験をしました。

私の場合は、禅に凝り固まっていて、世俗と聖なる世界との間にハッキリと線引きをしてしまって、世俗を捨てて聖なる(と私が勝手に幻想した)禅の道場にとびこみました。職も辞め、大量に持っていた書物なんかも全部処分して、年老いた両親とも泣き別れての出家でした。

でも、その道場も世俗の延長であるということがすぐ分かりました。それで道場を出ることにしたのです。

その時の絶望感、世界が一気に崩壊してしまったような虚脱感、これはもう二度と味わいたくないような辛いものでした。

しかし、この道場の名誉のために言っておきますが、これは私がアタマで強引に思い描いた「誤った価値観」が悪いのであって、決してこの道場が悪いというわけではありません。

世俗と聖なる世界との間をクッキリ線引きするというのが、そもそもの間違いなのです。「万里一条鉄ばんりいちじょうてつ」という禅語がありますが、「大地」は、はるかかなたまで大らかに広がっていて「仕切り」なんてどこにもないのです。本当にアルのは、聖なるものも世俗なるものも、一切を包容して支え養い育てているもの(「大地」にたとえられるようなもの)だけなのです。

私の最初の師匠である内山興正老師の言葉を思い出します。「世法(俗世)のなかに仏法はありませんが、仏法のなかに世法はありませんよ」

しかし、当時の私はそんなことはとても理解できず、職も失い、なすすべもなく実家に潜んでいました。口には出しませんが両親もさぞかし心配だったことでしょう。

よく散歩に出かけて、淀川の川べりの草原で坐禅したり、横になったり、ゴロゴロ寝転がったりしていました。川で魚が飛び跳ねてポチャンと水に戻った時、ある気づきがあって、その気づきを詩にしました。

大地の春

人間を相手にするな

経典を相手にするな

大地の上にじかに坐せよ

大地のぬくもりに直に融けこめ

萌えいず生命いのち息吹いぶき

さざめく大気の喜びを

体いっぱいに吸いこめ

アタマ(価値観)が崩れ去っても、私はなお生きていました。生きているというより、生かされていたのです。何に生かされていたのかというと「大地」にです。倒れても、すっ転んでも、間違いなくあったかい「大地」がその下にあって私を支えてくれ、包み込んでくれていたのです。

「大地」には、聖も俗も、成功も失敗も、善も悪も、そんな区別、差別の「仕切り」は一切なく、すべての存在をただ「生きよ、伸びよ」と養い、育てて下さっていたのです。


「人を不幸にする誤った信念(思い込み)」があります。

二か条だけあげておきますと、

(1)「絶対に」とか、「完全に」とか、「すべての」とか、「常に」とかが、くっ付いている信念は人を縛って不幸にする。

たとえば、「『絶対に』この教団の教えは正しいんだ。(ということは他の教団の教えは全部間違っているということですね)」。そんな誤った信念を持たされてしまった人は、狭くて窮屈な仕切り(牢獄)の中に住まねばならなくなります。

「この教団の教えは『すべてであり、完全』なんだ。(そうすると、もう変化と発展の余地はないということですね。未来永劫この教団の教えに縛り付けられて先に進めなくなるということですね)」。

(2)「べき」とか、「ねばならない」とか、「当然」がくっついている信念も、人を不幸に陥れてしまう。

たとえば、「私はこの教団の教えを一字一句違わずまもって生きる『べき』なんだ。(そうすると、少しでもその教えから脱線してしまうと、重い「罪の意識」を持って、自分で自分を罰するような出来事を引き起こしてしまう(自己処罰)ことになりがちです。あるいは、罪悪感から自己否定して、すべてを教団の指導に委ねてロボットのように、「指示待ち」で生きるということになりがちです)」。

私の場合は、自分で勝手に誤った価値観を作ってしまって(上の二ヵ条のすべてに相当するような価値観でした)、それに自縄自縛じじょうじばくされて不幸になってしまったのですが、Tさんの場合は、その教団自体がそんな誤った価値観で信者の皆さんを縛っているようですね。

R・モンローさんによると、地上世界を去った人たちがおもむく「信念体系領域」という層があるそうです。

ここは、頑固な宗教的信念や教理や思想など(先ほどの「人を不幸にする誤った信念」の二か条に該当するような誤った信念)を共有している教団や団体に所属している人たちが引き寄せられてやってくる世界です。

同じ教義信条を頑なに信仰している人たちが固まって住むことになる領域です。

浄土系の経典にはこんな例が書かれています。

ある人が、死んだら極楽浄土に往きたいと一生懸命念仏するのですが、その人が所属している集団の信奉する教えや修行のあり様が、先ほどの二か条にぴったり符合するような、頑なで排他的なものだったとします。そんな人が亡くなって、どんな世界に行くことになるのでしょう。

この経典によると、その人が目覚めると「極楽?」のようなところに自分が来ていることを知って喜びます。そこには教団で知り合いだった人もたくさん住んでいます。

でも、そのうちにだんだん暗い気持になってきます。見た目は七宝で荘厳された美しい世界なのですが、変化というものがまったくないのです。

毎日同じパターンの生活が続きます。朝起きた途端にこれから1日をどうたどることになるのか分かってしまうのですからゲッソリします。

ドンドン心が重苦しくなってきて、ついにこの「極楽?」は、実はその人を縛り付ける「牢獄」であったということがハッキリするのです。

それで、その牢獄から脱出しようとします。でも、それはとても困難です。

なぜなら、自分一人で作り出した幻想の世界であれば、自分が脱けようと決めたら、その幻想はすぐに消えますが(アッチの世界では、思ったことがすぐに形になります)、ここは集団の念を結集して作り上げてしまっている強固な幻想なので、ブラックホールのように、その吸引力がとても強くて、なかなか脱けられないのです。

信念体系領域の団体に所属している人を救済することはとても困難で、たまにポロッと零れ落ちかけた人だけをなんとかその引力に逆らって脱出できるように手を差し伸べて引っ張ってあげられるだけなのです。Tさんはそんな稀有な例で、本当によかったですね。


お釈迦様は弟子達に向って語っておられます。「君たちが川を渡って向こう岸にたどり着けるようにと、私は君たちに教えを説いてきた。私の教えは君たちを向こう岸に渡す「いかだ」のようなものなのだ。

君たちが私の教えをよくまもって行じ、無事に向こう岸まで無事たどり着けたとする。

でも、君たちの魂の進化の歩みはそこで終わりというわけではない(「極楽」は終の棲家ではありません)。そこからまた歩を進めてゆかねばならないのだが、その時に、この「筏」を後生大事に背に負って歩んでゆかねばならないのだろうか。

そんなことはないだろう。「筏(お釈迦様の教え)」を背負って進もうとしても、君たちはその重みでちっとも前に進めないだろう。

そのように、向こう岸に達したら、もう私の「筏(お釈迦様の教え)」は必要ないのだから、そこに置いて身軽になって再びスタートしなければならないのだよ」

私は元教師ですが、高校3年生を担当した時は、生徒達に4月の最初の授業でこんなことを言っていました。「とにかくはじめは僕のことを信じて付いてきて欲しい。でも、夏休みが終わった頃には、もう君たちは僕を超えているはずなんだ。そうでなければ東大や医学部なんて通るはずがないんだからね。だから、それからは僕のやり方に従う必要はないよ。もう自分なりの方法、自分で工夫した勉強法でしっかり勉強してくれたらそれでいいんだよ」

このように指導して進学の成果を上げることができました。

生徒を信頼せず、いつまでも生徒を引っ張ろう、コントロールしようとする先生は、結局成果をあげることができません。

ラストスパートが必要な時期に生徒達は息切れして追い抜かれてしまうのです。それに「指示待ち」の生徒ばかりを生み出すので、大学に入っても、自分なりの学び方を自分で工夫して編み出していないので留年率が高いのです。

大敬の理論や神話や実践法なども、あるところまでは信じて付いて来て欲しいと思います。でも、大敬で生まれてもいいが、大敬で死んだというのでは、大敬は悲しいです。

私の学校の教え子達のように、大敬を乗り越えて、自分で工夫し、自分の言葉で語り、行動できる一人立ち出来る立派な人間に育ってほしいと思います。


洞山とうざん禅師の先師である雲巌うんがん禅師の忌日に供養の法要が行われました。

ある僧が洞山禅師に質問します。「師は先師の供養をされましたが、果たして先師を認めておられるのですか」

洞山禅師は答えました。「半分は認め、半分は認めない」

僧は再び質問しました。「どうして全部お認めにならないのです」

洞山禅師は答えました。「もし、全部認めたら、先師を裏切ったことになる」と。


ある方がブログに質問を寄せてくださいました。

「こんな夢を見ました。閉まったドアが4つ並んでいて、その前に大敬先生がいらっしゃるのです。

そして、先生が『どのドアでも開けてあげるよ。そして、その中の様子を解説してあげられるよ』とおっしゃるのです。

でも、私は、その4つのドアのなかのことは、はじめから実は知っているし、ドアは私が自分で開けなければならないんだということをなぜか知っていたので、その先生の提案をお断りしてしまいました。私は先生に対してとても失礼なことをしてしまったのでしょうか」

 そんなことはありませんね。この方はもう自分の足で歩き、自分の手でドアを開けて新しい世界に踏み込んでゆくことが必要な時期が到来しているのです。この方には4つの道があって、どの道を行くかは自分で決断しなければなりません。何か一つのモノを選ぶということは、残りの可能性を捨てるということなのです。

人生は、捨て捨て

スタスタ歩む道

一瞬一瞬、ビクビクもので

一瞬一瞬、ハラハラもので

だから、刻々が新生で

毎瞬毎瞬輝いている

ハラハラ、ビクビク、ワクワク、キラキラ

人生は、捨て捨て

スタスタ歩む道


さて、話がずいぶん先まで進んでしまいましたね。

Tさんがそのような教団とご縁があったというのは、教団だけに責任があるのではなく、Tさん自身にもそういう波動を引き寄せやすい魂のクセがあるからなのです。

ですから、よく気をつけて、これから出会われる教えが、先ほどの「人を不幸にする信条」に符合していないか、よくチェックしてみてくださいね。

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