「山よ、来い!」

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

学校の教員だった時、中学3年の学年通信に寄せた文章です。

たしか夏目漱石の『行人』であったと思うのですが、マホメットの逸話が載っていました。

マホメットは街の人たちに「山を招き寄せてみせる」と宣言します。
町の広場にその光景を見ようと多くの人が集まってきます。

マホメットは山に向かって立ち、「山よ来い」と手招きします。…山は動きません。
二度、三度と「山よ来い」を繰り返したのですが、山はついに動きませんでした。
マホメットはしばらく山に向かって呆然と立ちすくんでいましたが、やがてニコッとほほえんでいいました。
「そうか、山は来ぬか。しからば我が行こう」
そうして、あっけにとられている観衆を残して、スタスタ山に向かって歩いていったそうです。

私の人生の師であった角倉志朗先生(故人、天皇陛下の侍従、東大法学部をトップで卒業したそう)は、この話を取り上げて言われました。

「さて立花君、マホメットのこの山へ向かって歩き始めた第一歩こそイスラム教が世界宗教に成長するスタートの第一歩であったことが分かるかな。この時、マホメットは何を悟ったのか分かるかな。」

さて、皆さんはこの問いに答えられるでしょうか。

『山』は、友達です、先生です。お父さん、お母さんです。学校です、社会です、世界です。

『山』は自分の思うとおりに動いてくれません。自分のことを特別に気にかけ接近してきてくれません。悲しくなりますし、腹が立ちます。

そんな時どうしますか。

『山』にこっちを向かせようと、お祈りし、呪文を唱えますか。あるいは、『山』が悪い、『山』が憎いとワラ人形(山形?)に釘をガンガン打ち付けますか。

もし、マホメットがそんなレベルの人だったら、決してイスラム教は世界宗教にはならなかったでしょう。そんなレベルの人は、みんな「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。

『山』が動かなかったら、自分の方から行ってみたらどうでしょう。自分の方から「コンニチワ!」と出ていってみたらどうでしょう。

「どうして、僕が先に言わなければならないんだ、『山』が先に動くべきだ」などとこだわる人は、さっき行ったように、「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。

『山』が近づいても、自分が近づいても、実は同じことじゃないでしょうか。大切なのは、お互いが親しくなる、仲良くなる、分かり合えるという事だけじゃないでしょうか。

どんな状況でも、自分という立場をサッと忘れて、「コンニチワ!」と出ていける人はもう「自分」の立場に固執する事から自由です。そんな人はきっと、自・他を越え、損得を越え、国境を越えて自由に活躍できる世界人に成長することでしょう。

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