しあわせ調べ

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信181号」の内容を再編集して掲載しています。

「しあわせ通信」を執筆していながら、「しあわせ」とはどういうものなのか、あまり深く考えたことがなかったなあと、ふと気がつきました。

それで、「しあわせ」とはどういう状態のことなのか、考えてみたのですが、どうもハッキリしないのです。

しょうがないので、逆の方向から追求してゆくことにして、「ふしあわせ」とはどういう状態のことなんだろうと考えてみたのです。
すると、これは実にハッキリ分かるのですね。『なんで!』と、ずいぶん驚きました。

理由を探ってみると、私は45歳まで、ずっと「ふしあわせ」な状態が続いてきて、そこから突然「しあわせ」な人生に突入するようになったので、「ふしあわせ」な状態には、実によく馴染んでいて、身にも付いているので、それについてはよく分かるのだと思います。

悲しいことですが、そうなのです。
今でも、「しあわせエンジェル」さんが、次々やって来て「しあわせプレゼント」を「コレもどうぞ、コレもどうぞ・・・」と差し出してくれるのですが、『こんなに「しあわせ」でいいんだろうか』と、ついつい不安や後ろめたさを感じて、<受け取り拒否>してしまいそうになる自分がいたりします。

私が長年の間馴染んできた「ふしあわせ感覚」を思い返してみると、次の3つに要約できるようです。
(1)貧しい感じ 
(2)淋しい(孤独な)感じ
(3)無力・徒労な感じ

ですから、これらの逆の感覚が「しあわせ感覚」と言えそうです。
つまり、
(1)豊かな感じ
(2)賑やかな感じ
(3)生き甲斐・やり甲斐がある感じ

45歳からの私は、心に常に、これらの「しあわせ感覚」が宿るようになって、心に描かれたイメージや想いや感情・感覚が「形の世界」に現れてくるのですから、それで、私の「形の世界」に「しあわせな状態」が、つぎつぎやって来るようになったのだと思います。

ですから、大切なのは、「形の世界」を操作して、「しあわせ状態」を創り出そうとすることではなく、まず、「心の世界」に「しあわせ感覚」を宿して、それをしっかり育ててゆくことなのです。やはり、『形(結果)は後で、心(原因)が先』ということですね。

(1)の「豊かな感じ」とは、私有財産がたくさんあるから、それで心に感じる豊かさというものではありません。
私が心で実感している「豊かさ」は、私有財産の多寡には関わりのない「満たされた感じ」です。
 
それは、「ゆ高さ」ですね。「ゆ度」がとても高いのです。

「ゆ」とは、「ゆったり」であり、「ゆうゆう」であり、「ゆるし・ゆるされ」であり、「ゆっくり」なのです。
そして、温泉の「おゆ」にたっぷりつかって、心身ともにほどかれている「豊かな感じ」です。

そんな「ゆ高さ」を心に常に宿していると、それが、いつの間にか形の世界の豊かさとして現れてくるから不思議です。

何度の言いましたように、私は45歳までフリーターのような状態でしたが、それでも家を三軒新築して、今はこの地方で一番の高級住宅地の一角に住居を建てて住んでいます。

私は私的財産を少しも所有していないのに、そんなことが可能なんですね。「心さん」は偉大です。不可能に見えることでも実現してしまいます。

私はお金には今でもまったくご縁がありませんが、子供たちには親戚の遺産などが入ってきたりして、それぞれ財産持ちになっていたりします。

心に豊かさを宿せば、こんな奇跡のようなことが次々起こってきます。

私には、私的財産はまったくないけれど、「公的財産」がたっぷりあるので(宇宙全体といのちがひとつになったのですから、宇宙全体が私の財布なのです)、こんなことも起こるのでしょう。

(2)は、「賑やかな感じ」です。
古語の「ニギ」とは、柔軟なこと、調和がとれていることをあらわします。ですから、古人は漢字の「和」で「ニギ」を表しました。

心に「ニギ」が宿るようになると、自ずと人が集まってきて賑やかな人生を生きることが出来るようになります。

私は、人との関わりがつらい傾向を色濃く持っている人間で、職場でも、同僚との個人的なつきあいをせず、宴席にも一切参加しないのですが、それでも仲間はずれにされることなく、みなさん、したしくやさしく接してくれています。

それに、お道の方でも、私の話を聞きたいと多くの人たちが集まってくださったり、本を通してつながりができたり・・・、孤独癖のある私にとっては、これらは驚きで奇跡なのですが、心に「ニギ」を宿すと、そうなるのですね。

若いときは孤独な人生を最後まで生きることになるんだと覚悟を決めていましたが、そうならず、歳をとるほど、ますます、たくさんの心のきれいな、あったかい仲間たちに囲まれて、賑やかで楽しい人生を生きることができるようになって、本当に不思議で、とても有りがたく感謝しているのです。

(3)は、「生き甲斐・やり甲斐がある感じ」ですね。
この感覚が得られるようになったことが、私には一番嬉しいことです。

若い頃は、自分が生きていることの意義がちっとも感じられず、自分が生き続けることが許されているようにはとても思えなかったのです。自分が存在しているだけで罪なのではないかと、ずっと思っていました。

しかし、「ひとついのち」を自覚し、「金平糖大作戦」という、人類進化のシナリオを知ることができて、自分が自分として、今・ココに存在して生きることが大宇宙の要請であり、自分が今・ココで生きなければ(別にかっこよく生きる必要はないのです。笑ったり泣いたり怒ったりしながら精一杯生きればいいのです)、人類の魂の進化はついに完成できないのだと気づきました。

自分が自分を生きることだけで、宇宙全体のための大きな貢献になっているのだと知りました。
 
自分という存在の根拠、裏打ちが大宇宙そのものなんだと分かって、そのどっしりとした自信が心に宿ったとき、大宇宙進化のため、自分が果たすべき役割の座(私の場合は「筆の御用」の座)に宇宙船に乗せられ、運ばれてゆくことになりました。

行き先の知れない船に乗り込むのは、とても不安なことでしたが、『どうせ死ぬ身だ!』と、思い切って眼をつぶって、とび乗ってしまいました。
そして、運ばれてたどり着いた役割の座が「筆の御用」であったのです。
その座から、とても豊かで、賑やかな「しあわせ人生」が広がってゆきました。
 
この先、私の人生にどのような展開が待っているのか、私にはまったく分かりませんし、分かろうとする必要は、もうありません。

「どこにゆくの?」
「知らん、宇宙号に聞いてくれ!」
 
これからやって来るであろう、ハッピーハプニングに身を任せて、「想定外!」を大いに楽しんでゆきたいと思っています。

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