聖徳太子の法華経

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信193号」の内容を再編集して掲載しています。

聖徳太子は、3つのお経の注釈書を書いておられて、それは、『法華義疏ほっけぎしょ』、『維摩ゆいま義疏』、『勝鬘しょうまん義疏』です。あわせて『三経さんぎょう義疏ぎしょ』といいます。これらは、宮中で講義された際の講義原稿なのだそうです。

『維摩経』では、出家ではない維摩居士こじ(商人、経営者、大富豪)が主人公となって活躍します。お釈迦様の出家の長老弟子たちが、その仏教理解の間違い(既成概念、形式・儀式・資格主義、男女差別見など)を維摩居士に徹底的に指摘され、やり込められるというお話です。

聖徳太子は、出家主義の仏教には反対で、仏教は世俗の只中で、生きて働くものでなければならないと考えておられたので、このお経を取り上げられたのでしょう。
  
『勝鬘経』は、勝鬘夫人という女性が、お釈迦様の前で、自らの悟りの境地と将来の誓いを大演説される(お経には獅子吼ししくするとあります。ライオンが吼えるような勇壮な演説だったというのですね)という内容で、聖徳太子は、女帝推古すいこ天皇の摂政せっしょうをしておられたので、女性の天皇さまのために、このお経を取り上げられたのでしょう。  

それに、この勝鬘夫人は、インドの「アユジャ(アヨーディア)国」のきさきで、この地方は「弥勒みろく菩薩」が降臨されたという聖地で、百済国の王のもとに、「アユジャ国」の王女が嫁いだという記録も残っているので、聖徳太子と血縁的な繋がりもあるのかもしれませんね。

『法華経』は、聖徳太子が日本国に一番ふさわしいと考えられたお経です。

聖徳太子は、「法華経」は、「万善同帰まんぜんどうき」、「一乗いちじょう」、「仏寿ぶつじゅ久遠くおん」を説くものだとされます。

「万善同帰」とは、「すべての善き行いは、その人を〈ひとついのちの故郷〉へ復帰させる(仏とならせる)原動力となる」という意味です。

「万善」とあるのは、「どのような信条を持つ人であっても、その人が善なる行為を実践しさえすれば」という意味です。

仏教を信じていても、キリスト教信者であっても、あるいは無宗教の人であってもそれは関係ない。善なる行為さえ実践すれば誰でも、それが「功徳(これは、心のエネルギーのことでしたね)」となって、「仏となる(ひとついのちに帰郷する)」という最終ゴールに一気に近づくことが出来るというのです。
  
では、「善なる行為」とは、どういうものなんでしょうか。
「自我の囲い」を薄くしたり、風穴を開けたりする行為が「善なる行為」で、「エゴの囲い」を一層厚くするような行為が「悪の行為」なのです。

ですから、人のしあわせのために、モノやお金や労力を提供する行為(仏教では「布施行」という)は、「善なる行為」です。その際に、人のしあわせのために差し出す手と運ぶ足で、「自我の囲い」が破れたり、穴が開くことになるからです。

また、坐禅したり、お経をあげたりすると、おのずと「エゴ」の気持が薄まりますね。
ということは「自我の囲い」が薄くなったり、ほどけたりする(「エゴの囲い」が全部ほどけてしまった方が「ホドケ(仏)さま」です)ということですね。ですから坐禅やお経をあげることも「善なる行為」です。

坐禅しても、人のために何も貢献していないじゃないか。なぜそれが「善なる行為」と言えるのか?と疑問を感じる人もいるでしょうね。

「エゴの囲い」がほどけたら、その際の「平安と祝福の心の波動」が、「自我の囲い」がない(薄まっている)から、宇宙全体に届きます。その波動を受けて、人々も「安らぎと祝福」を得ます。

ですから、坐禅すれば、宇宙・人類に平安をもたらすことが出来るのです。

坐禅の時、手は、バスケット(籠)の型の「法界ほっかい定印じょういん」に組みますね。「法界」とは、「宇宙」のこと、「定」とは、「安定」のことです。
このバスケットの中に宇宙人類をそっくりそのまま収容して、「よしよし、心配いらんよ。大丈夫だよ」と安定させるのが「坐禅」なのです。 

「一乗」とは、「一つの乗物」という意味です。

お釈迦様は、「小乗」と「大乗」の教えを説かれました。
「小乗」とは、「小さい乗物」で、自分ひとりしか乗れない乗物です。
この地上世界は苦しみの世で、一日も早くこの苦しみの世界から脱出したいと思う人が、「地上世界からの離脱」を目的地にして乗り込むのが「小乗」です。

この世は、どうせ幻想、妄想の産物で、本当はありはしないものだと考えるので、他の人のことなんてどうでもいい、世界なんてどうなろうと知ったことでないのです。

だから、加速しやすい、小回りがきいて障害物にぶつかりにくい、定員一名の「小さな車」に乗って出発します。
定員一名ということは、出来るだけこの世との関わりを減らすほうがいいわけですね。だから、小乗仏教は出家主義なわけです。

「大乗」は、そう考えません。

私たちが、この地上世界に生まれたのには、やはり深い意味と意義があるのではないだろうか。自分ひとりの解脱を目指すのではなく、平安と喜びに満ちた人生を、みんながこの地上で送れるようにならねばならないはずだ。
人類全員が乗り込んでも、まだ空席があるというほどの「大きな乗物(大乗)」に、みんなで乗り込んでゴールに向かおう。
そのためには、私たちが菩薩になって、何度も地上世界に帰ってきて、全員をこの「大きな乗物」に収容するまで救済活動を続けてゆこう、というのが「大乗」の教えです。

「大乗」の人は、「小乗」を軽蔑非難し(「維摩経」がその典型ですね)、「小乗」の人は、「大乗経典」は、お釈迦様の教えではないと否定します。

「法華経」以外の「大乗経典」では、極悪非道の人でも最後はゴールイン出来るけれど、「小乗」の人だけは、決してゴールに到達できないなどと書かれています。 

しかし、「法華経」は、「それはおかしいよ」といいます。

「大きな乗物」なんだから、「小乗」の人のための席がないなんてあり得ない。例外なく一人残らず「同じ進化のゴール」に到達出来るのだ(「同帰」)といいます。

「小乗」の人も、やがて自分ひとりだけで、苦しみの世から脱出出来ると思っていたのは誤りで、本当は全部の人が「自分の分身」なんだから、全員が離脱できなければ、自分の離脱もないんだと気づくことになる。

真の「離脱」とは、全員が一緒に地球次元における進化過程を修了して、次ぎの星にジャンプすることだったんだと、やがて彼らも悟るようになるんだよと、「法華経」は言います。

「小乗」と「大乗」という二つの乗物があるのではなく、本当はすべての人が例外なく、残らず乗り込める、一種類の乗物(一乗)しかないんだというのが、「法華経」で強調される「一乗」です。

「仏寿久遠」とは、「お釈迦様は、今もなお、生きて働き続けておられるのだ」ということです。

「小乗」の人が、「大乗経典」は仏説ではないというのは、それらの経典が、お釈迦様が亡くなられた後に出現したものだからです。
つまり、「小乗」の人は、お釈迦様はもう地球世界から離脱されたので、この世界とは関わりがないというのです。

しかし、「法華経」は、お釈迦様は、そんな冷たい人ではない。いったん「人類全体の面倒をみよう」と覚悟を決められたなら、死んだからといってその覚悟が消滅するはずがない。
進化達成の日まで、「とことん面倒みてやろうじゃないか」と、今もなお地上で生きて働いておられるのだというのです。

だから、その時代にマッチした教えを、次々生み出して(だから「大乗経典」や「法華経」が現れた)、救済・指導を続けてゆかれているのだというのです。 

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