本記事は「しあわせ通信162号」の内容を再編集して掲載しています。
H・Bさま
お便り、有り難うございます。
趙州さんにある僧が質問しました。
「私は新入りの僧です。どのように修行してゆけばいいのでしょうか」
趙州さんはたずねました。
「メシを食ったか」
僧は答えました。
「はい、いただきました」
趙州さんは言いました。
「じゃあ、食器を洗え」(『無門関』第七則)
この公案(禅の問題)を読むと、なぜだか分からないけれど涙が止まらなくなるというのは素晴らしいですね。
あなたは頭がよすぎて、それがイノチの邪魔をしているのですが、カラダさんは見事に悟っておられますね。
前のお便りで、前世療法の先生の活動に協力していたんだけれど、そうすると体調が悪くなってしまうので、申し訳ないけれど、活動から手を引かせて頂いたとありましたね。カラダさんは、あなたがこの方向に進むべきでないと知っていて、それであなたにブレーキをかけてくれたのですね。ありがたいことです。
あなたは前世のことを気にして、懺悔の気持ちに心を占領されていらっしゃるようですが、そういう意識のフォーカスは、その過去世の延長上に、あなたの未来を描いてしまうのです。
そうすると、あなたのこれからの人生は、過去世の業をおわびするための人生になってしまいます。
つまり、あなたは幸福になってはいけない。
あなたは、自分の持てる力を精一杯発揮して、堂々と、生き生きと、イノチを輝かせて生きてはいけないということになってしまいます。
それでいいのですか。
それでいいとおっしゃるなら、それでオーケーなんですが、私から見ると、あなたはもっと世のため、人のために貢献出来る能力がおありなので、大いに活躍して頂きたいと思うのです。
「振り替えの理」というのがあって、苦労は苦労でも、懺悔滅罪の苦労の人生を、世のため、人のために尽力する苦労に振り替えることが出来るのですよ。私ならソッチを取ります。
あなたの頭はいろいろ脱線、暴走をしがちですが、あなたのカラダさんは何千年の叡智の結晶で、あなたが進むべき道をご存じです。
今後も、カラダさんの判断を無視しないで大切にして下さい。
実は、この趙州さんの公案は、この前の便りでお知らせした、ナメクジさんの生き方(触処生涯)の実例なのです。
カラダさんはそのことを知っているので、あなたにそのことを知らせるために涙を流すのです。
私の師匠(角倉蘿窓老師)は、この公案の解答を一言でいうと『人生は流れ作業』だとおっしゃっていました。
ナメクジさんのように、目の前にやって来たことだけに意識を集めて、大小や軽重を計算せず、判断せず、堂々めぐりの思いを切って、それぞれの課題をゴミ箱に投げ込むつもりで、エイヤッと、次々やっつけていきましょう。
ベルトコンベアにのって、次々と作業課題がやって来ます。
次々と課題はやって来ますが、今・ココでタッチできる課題はひとつなのです。そのひとつの作業だけに意識を集中してやってゆきます。
もし、作業に失敗しても、『アッ、まずかった』と、失敗作が流れてゆく様子ばかりをいつまでもながめていれば(あなたが過去世に意識をスティックして離れられないのは、このような状態ですね。そういう状態を私はよく『引きずり女』と表現します)、今・ココの作業がお留守になってしまいますね。
また、遠くを見る眼を信用して、まだやって来ていない作業課題の方ばかりに意識を集めてしまうと手元の作業がおろそかになってしまいますね。
この公案は、過去を引きずらず、未来を追わないで、今・ココにイノチの重心をしっかり据えて、人生を流れ作業にする生き方を教えているのです。
私もあなたと同じで、頭がイノチの邪魔をするタイプなので、一時期、神さま(高次元の自己)から、頭をストップしてカラダを動かす練習をさせられました。
頭を落として(判断を停止して)歩き回ります。
そうすると、カラダさんは勝手に方向を決めてウロついたり、ストップしたりします。
それに任せて歩くのです。
それで、何の矛盾もなく、不効率でもなく行動できることが実験の結果分かりました。
カラダさんの智慧は、アタマ君の能力をはるかに超えているのです。
アタマ君は、今・ココからさ迷い出して、過去や未来にただよったりします。
しかし、カラダさんは、今・ココにしか存在できません。
ですから、頭を落としてカラダだけになることが出来れば、イノチはその本拠地である今・ココに落ち着くことができるのです。
皮膚感覚に時々意識を集めて確認する作業は、カラダに意識を集める、つまり、今・ココに意識をしっかり置くための第一歩なのです。
それが出来るようになると、あなたが本来のあなたにもどり、世界が本来の世界にもどるようになるでしょう。
そうなった時のあなたのイノチの輝き、世界の輝きの素晴らしさ…。先を楽しみにして下さい。
坐禅は、頭を落として、カラダに復帰するための一番安楽な方法です。
頭が落ちてカラダだけになれたことは、皮膚感覚が正常になったことで分かります。
それで、螢山禅師はこの感じを『覚触』と表現したのです。