「出来ること」・「出来ないこと」

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

無門関むもんかんの第42則は『女子じょし出定しゅつじょう』という公案(禅の問題)です。それは次のような内容のものです。


文殊さんがお釈迦様と会うためにやってきました。すると、侍者じしゃが、「今、世界中の仏様が集まって会議中なのでもう少しお待ちください」といいます。
そこで、文殊さんは待機していました。
しばらくして、また侍者が現れて、「只今、会合が終わり仏様方は本国にお帰りになりました。どうぞお入り下さい」と言って、文殊さんをお釈迦様の部屋まで案内しました。
 
文殊さんが部屋に入ると、お釈迦様の前に見知らぬ女性がいてサマーディ(三昧さんまいのこと=忘我の状態)に入って座っていました。
文殊さんは不思議に思って、お釈迦様に訊ねます。「この女性はなぜここにいるのですか?なぜお釈迦様の間近でサマーディに入っているのですか?」

お釈迦様は答えます。「君が彼女に直接聞けばいい」
そこで、文殊さんはこの女性を三昧の状態から目覚めさせようと、いろんな手を尽くしますが、なぜか目覚めてくれません。何万回もの転生修行の末に獲得したあらゆる秘術を尽くすのですが、この女性はどうしても目覚めてくれないのです。

お釈迦様は言います。「文殊が何百人も集まって知恵と力を尽くしたとしても、この女性を目覚めさせることはできないよ。地中の底の底(地獄界)に罔明もうみょうという名の者がいるんだが、彼ならこの女性を目覚めさせることが出来る」

お釈迦様がそうおっしゃった途端、大地がグラグラ揺れて、地の底から罔明が浮き上がってきて、お釈迦様を礼拝します。
お釈迦様が「この女性を目覚めさせなさい」と命じると、罔明は弾指だんし(指をパチンとはじくこと)しました。その途端、この女性は目覚めたということです。


さて、以上のような『諸仏しょぶつ要集経ようしゅうきょう』というお経に載っている物語をもとにして、この公案は次のように問います。
「文殊はなぜこの女性を目覚めさせることが出来なかったのか。罔明はなぜこの女性を目覚めさせることができたのか?」

文殊さんは「過去かこ七仏しちぶつの師」であったとされています。お釈迦様も含めて過去に次々七人の仏様が出現されたのですが、文殊さんはそのいずれの仏様の修行時代においても、その仏様を指導する先生であったとされています。そんな仏を指導するほど高い境地にある大菩薩さまなのですが、それでもこの女性を目覚めさせることが出来なかったのです。

罔明は地獄界の住人で、その名の「罔明」は「明るさがない、ドヨーンと根暗ネクラ」という意味です。そんな人がなぜこの女性を目覚めさせることが出来たのでしょうか。

この公案の答えは実に簡単です。驚かないで下さいよ!

文殊には「出来なかった」、罔明には「出来た」、ただそれだけのことです。  

先日、家内が膝を悪くして、私が家事を分担したり、買い物に出かけたりしなければならなくなりました。
ある日、家内が「コンビニでコーヒーを2杯買ってきて」と言いました。
私はドキッとしました。コンビニの百円コーヒーなんて買ったことがなかったからです。
それで家内に買い方など教えてもらってハラハラドキドキしながら何とかクリアーして持ち帰ることが出来ました。ただし途中で半分ほどこぼしてしまいましたが…。持ち帰り容器を用意してもらうのと、フタが外れやすいことに気が付かなかったのです。

2回目からは何とか無事に持ち帰れるようになりましたが、ある日、家内が「暑くなったからアイスコーヒーにして」と言いました。
私はまたドキッとして、『おい、氷はどうするんや!』とうろたえましたが、家内に手順を説明してもらって、これもウロウロオロオロ戸惑いながら、なんとかやれるようになりました。ただし、初めての時はストローを持ち帰るのを忘れましたが…。

私は、自分で言うのもなんですが、禅の難しい公案を解いたり、経典や神典の、何百年ものあいだ、誰も気づかなかった解釈を引き出したり「出来ます」。でも、コンビニコーヒーを買うことは「出来なかった」のです。私はそういう人間なのです。

家内は、新しいものにドンドンチャレンジして、すぐ我がモノにしてしまう人です。でも道元さんの正法眼蔵は解釈「出来ません」。彼女はそういう人間なのです。

このように、すべての人間は「出来ること」、「出来ないこと」のたば、集合体です。誰が上、誰が下なんていうことは出来ません。そう生まれついたというだけのことなのです。

しかし、人はこんな事態に遭遇すると、原因理由を追求しがちです。どうして「出来ない」のか知ろうとします。
もちろん、過去や過去世からの無数の因果が絡んでそういう「いのちのクセ(ごう)」が生じてしまっているというのは確かなのですが、その原因が分かったからといって、それで只今直面している事態が、即メデタシ、メデタシと解決するというわけではありません。

たとえ話をします。
あなたが戦闘に参加している兵士であったとします。手元には数種類の武器がありますが、目の前の敵をやっつけるために一番有効な武器が残念ながら手元にはないとします。その有効な武器がないと、敵を撃破することが「出来そうもない」のです。

そんな時、あなたのアタマはその有効な武器が手元にない原因について考え始めます。
『ああ、あの時、ボクはこうしておればよかったんだ。そうしておればあの武器が手元にあったんだがなあ』などと考えて自分を責めたりします。
また、『あの時、あいつがあんなことしなければあの武器をここで使えたのに』と、人を責めたりします。

そういう自責の念や、人に対する非難、恨みの念は当座の戦いに役に立つでしょうか。そんなことありませんね。逆にそんな下らない頭の堂々巡りをしていたら、全力で敵に立ち向かう妨げになるだけでしょうね。

いま、直面している課題は、この危機をうまく乗り切ることですね。
そのためには、人にバカにされるような旧式で性能が悪い武器であっても、自分が今使うことが「出来る」武器のすべてを総動員して、全身全霊で工夫して戦ってゆかねばなりませんね。

大切なことは、アタマがやりがちなミス、過去を詮索して、自分を責めたり、人を責めたりする、そういうエネルギーの無駄遣いをまずストップすることです。
理由の詮索は結局「出来ない」言い訳を捜しているだけのことになってしまい、つらい現実に直面して思い切りぶつかっていくことの妨げになってしまうだけのことなのですから。

この公案のねらいはそこにあって、そういう「出来ない」ことがたくさんある私の現状を、人に笑われようが、バカにされようが、まずそのままそうであるということを認めること、受け入れ許すことだよ。
それさえしっかり出来たら、自分の持ち駒(「出来ること」)を用いて、次に必要な最高の一手を思いついて、ビシッと打ち出せるのだよと教えているのです。

私だって、ヒトからはおバカさんのように見られても、笑われても、ウロウロオロオロ、不器用な失敗の多い振る舞いばかりしていても、現状の持ち駒の自分で精一杯難局(コンビニコーヒーを獲得するミッション)に立ち向かっていったから、見事に難関を突破出来たのです。
 
人から見たら、「何だ大げさな」と笑われるかも知れませんが、私にとってはそれは禅の公案を解くこと以上に難しい関門だったのです。なぜか私はそういう「いのちのクセ(業)」を持って生まれついているのです。
でも、この体験でまた一つ、「出来ないこと」を減らすことができました。ずいぶん自信が付きました。

「出来ないこと」を認め、そんな無力な自分であることを許すと、なぜか「出来る」ようになるのです。面白いものですね。

この公案のお話しを京都の禅の会でした時に、私はキューブラー・ロスさんの「私はOKじゃない、あなたもOKじゃない。でもそれでOKなの!」という素晴らしいコトバを引用しました。

そして、「なぜOKじゃないのに(「出来ない」ことがたくさんあるのに)、それでOK(それでもそのまま許されている)のですか?」と皆さんにたずねました。

すると、ある青年が、「それは『ひとついのち』だからじゃないでしょうか。ボクに出来なくても、他の人にそれを出来たら、その人も実はボクの分身なんだからそれでいいわけです(それもボクが出来たということなんだから)。そのかわり、他の人が出来ないこと、ボクにしか出来ないことはボクが担当して他の人のカバーが出来たらそれでいいのだと思います」と答えました。

すばらしい解答ですね。若い人がこのようにどんどん育っています。
ボクも「七十の手習い」、頑張らなくっちゃあ。

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