白隠禅師坐禅和讃講義-その2-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

白隠禅師はくいんぜんじ 坐禅和讃 ざぜんわさん 

六趣輪廻ろくしゅりんね因縁いんねんおのれ愚痴ぐち闇路やみぢなり
闇路やみぢ闇路やみぢみそへて いつか生死しょうじはなるべき

『六趣』とは、『悟りを開かぬ人がおもむくことになる六種類の迷いの世界』という意味で、その六種類とは、『地獄(苦しみの世界)・餓鬼(欠乏の世界)・畜生(目先の欲望に振り回される世界)・修羅(争いの絶えぬ世界)・人間(善悪を知った、道徳的な世界)・天上(有頂天になって我を忘れている世界)』のことです。

小さな囲いの内側だけに住む人は、外界を眺めているつもりでも、実は自分を覆う囲いの塀しか見えていないのです。

幻想のエゴの塀に自分の心の図を投影させて、それが自分の住む世界の姿なんだと誤認しているわけです。

その人の心は六種類にグルグル循環して動揺して止まないので、その人は、自分が住んでいる世界は不安の絶えぬ、動揺極まりない、厳しい世界なんだと思い込んでいるのです。

囲いの中に限定されて生きている人は、世界の真の姿である、明るく、透明で、広々とした世界、旧い世界は直ちに滅し、新しい世界が刻々新生しつつという、生命力あふれる、生き生きした世界を知りません。

高い塀に囲まれて、光が射し込まないので、うす暗い世界に住んでいます。

自ら描き出した幻想の壁に密閉されて、空気の流通が悪いので、淀んだ、重苦しい世界に住んでいます。

そういういつまでも解放されることがない、グルグル同じところを循環し続けるような人生を『六趣輪廻』といいます。

そういういつまでも解放されない、束縛された人生を送らなければならないのは、自ら幻想のサークルを描いて、その内側だけが自分だと誤解した無知(これを『愚痴』という)から始まったのです。

そして、自分自身が囲いの中に閉じ込もり、外界の光が差し込んで来れなくするので、その人の人生の歩みは『闇路』を行くことになるのです。

真っ暗な中を、まっすぐ一生懸命進んでいるつもりなんだけれど、いのちのクセで少しずつカーブして進み、いつの間にかまたもとの位置に逆戻りして来て、同じところを何度もグルグルまわりしているだけなのです。

摩訶衍まかえん禅定ぜんじょう稱歎しょうたんするにあまりあり

摩訶衍まかえん』とは、『大乗(大きな乗り物、船)』という意味です。『禅定』とは、坐禅のことです。

大きな船ですから、誰でも乗船できます。頭が良くて、イメージ力、集中力がある人しか乗船させませんというような、資格限定の小さなエリート船ではありませんし、禅寺でやっているような、徹夜で坐ったり、警策(棒)でバンバン叩いて居眠りさせないといった、体力がある、若い人しか乗船させないといったような小乗禅でもありません。

自分が坐り、人と競いあって、自分が先に悟りを開くというような、どこまでも、自分、自分が忘れられない(我がまま、我勝ちの)修行や悟りは贋物です。

本当の『悟り』とは、『どこにも仕切りがない生き通しのいのち』の自覚を得ることです。

自分が坐り、自分が努力し、自分が悟るというのでは、ますますその『自分』という仕切りが強化されてゆくだけで、他と比べて優越する自分を形成して喜ぶという修羅の世界、仕切りと囲いが蔓延はびこる、氷の世界を離れることは出来ません。

白隠さんも若いころは俺が、俺が……と自力でやってこられて、また、弟子達もそのように指導されて、それで、自身も大病をされ、また厳しい指導で沢山の弟子が心や体の病に侵されても亡くなったのです。 

そして、四十を過ぎてそういう指導が間違いであったと、法華経を読んでようやく気づかれたのです。自分の努力で、自分が集中し、自分がイメージし、自分が足がひん曲がるほど、病気になるほど坐禅しても、それが自分という仕切り(自分とは、他とわれ自を分ける、仕切ることです)を残した坐禅ではしょうがないのです。

摩訶衍まかえん禅定ぜんじょう』とは、単純で大らかな坐禅です。Aさんとも、B君とも、富士山とも、川原の石ころ君とも、みんな一緒に坐るのです。セミさんとも、ミミズさんとも、仲良くこの坐禅という大船に乗って、一緒に『ひとついのち(仏)』というゴールまで運んでもらうのです(自分がオールを漕ぐのではなく、大船に運ばれてゆく有難さを噛みしめて坐るのです)。冷たい、厳しい坐禅ではなく、暖かい、大らかな坐禅です。その暖かさで自分と世界の氷を溶かして一体の水に戻る坐禅です。

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