「ムー」

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

趙州じょうしゅうさんにある僧が質問しました。「イヌに仏性があるでしょうか?」
趙州さんは答えました「ナイ(原語は「」)」
 
これは、無門関の第1則の『趙州じょうしゅう狗子くし』という公案(禅の問題)でしたね。禅に入門した時に、まず最初に師から頂く公案です。

「仏性」というのは、「仏になる可能性」のことだと思えばいいです。 すべてのいのちが本来仏様であるというのが大乗仏教の根本真理のはずなのに、なぜ趙州さんはイヌには仏性がないなどと言われたのでしょうか?と禅の入門者に問うているのです。

それは、イヌ君はこれから仏になるのではなく、イヌ君は現状のイヌ君のそのままですでに仏なんだから、その上に仏性なんていうかぶものを着ることはいら「ない」、必要「ない」というのでしたね。

イヌ君には「出来ない」ことがたくさんありますね。
まず、空を飛ぶことが「出来ない」。数学の問題を解いたり、巧みにしゃべったりすることが「出来ない」。電信柱を見たら思わず脚が上がってオシッコしてしまう。そんなことしてはいけないと分かっていても、そんな脚上げの衝動から解き放たれることが「出来ない」。
そんな風に、イヌ君は無数の「出来ない」に縛られて生きています。
そんなイヌ君が、ありのままの、「出来ない事だらけ」のままでOKなんだ。そのままで仏なんだと、どうしていえるのでしょうか。

それは、そんなイヌ君が、『あぁあ、ボクは空を飛べればいいのに』とか、『人のように、歌を上手に歌えるようにナゼなれないんだろう』などと、ないものねだりしないで、自分のいのちの持ち前になんの不平不満も抱かずに、限られた手持ちの道具をフルに使いこなして精一杯の自分を表現して生きている。
そうであるからこそ、その姿が美しい、輝いているのです。
そんなありのままの自分を生き切っている姿こそが「仏さま」そのものではないでしょうか。

人もそうでしたね。過去に「出来ない」ことの原因理由を捜そうとしたり、他の人と比べて自分はダメだと劣等感をもったり、未来に何か素晴らしい成功がやってくるとフワフワ夢想していれば、結局足元がお留守になって、あなたが現に生きている「今・ココ・我が身」にどっしり腰を据えて難局にぶつかっていけないから、他の人からみても、その人の生き様がくすぶって見えてしまうのです。

過去も未来も他人の評価も吹っ切って、今・ココの課題にいのちの全部を投入して生きてゆけば、失敗して見事にすっ転んでワンワン泣いていても、そのソコであなたのいのちは輝いています。精一杯の自分がそこに見事に表現されているから、他の人もその生き様に共感し、感動するくらい美しいと感じるのです。

禅の道場にゆくと、師匠に公案を頂いて、その解答を練りに練って、独参どくさんといって、師匠と1対1の場でその解答を提出します。
この「趙州狗子」の公案の場合は、初心者は四つんばいになって「ワンワン」といってみたりします。まあ、この解答はダメだいうことはお分かりですね。

また、よく大きな声で「ムー」と叫んだりします。
それが大きな声だから、道場のみんなによく聞こえるのですね。
だから初心の修行者は、『ははあ、趙州狗子の公案の答えはこれなんだ』と思って、ネコも杓子も師匠の前で「ムー」、「ムー」、「ムー」、「ムー」と叫ぶことになります。

笑い話のようで、何も分からずにただ「ムー」、「ムー」と繰り返すのはどうかと思いますが、実は、これはこれでとても素晴らしい解答となっているんです。

というのは、この公案が伝えたいことは、過去や未来や他者との比較にフラフラ脱線しがちな自分が、「今・ココ・この身」に復帰して、そこで持ち前を駆使して全身全霊で課題にぶつかってゆく姿こそが仏様なんだというのでしたね。

さて、「ムー」というコトバの響きをコトダマの面から分析してみましょう。

「ムー」は、「M」+「U」ですね。
「M」は、上唇うわくちびる下唇したくちびるをくっ付けて発音しますね。ですから、「ある中心に向って集中する」ことを表わすコトダマなのです。
たとえば、「参る」は、神という中心(これが「ま」)に向って入っていくこと(「ま」+「入る」)ですね。

「U」は、動きを表わします。
日本語の動詞は「遊ぶ」、「行く」、「歩く」、「跳ぶ」など、すべて「U」音で終わりますね。

以上をまとめると、「ムー」という響きのコトダマには、カラダ(特に下腹)という「いのちの中心」に向って「意識」を集めてゆくはたらきがある響きであることが分かります。

この公案の解答は、「フラフラしないで、君の身にしっかり意識を集めて行動しなさい」ということで、「ムー」と発声することによって、あなたの身に意識を集めることが出来るわけですから、この「ムー」が見事な解答提出となっているのです。

実は、最近私たちの禅の会では、坐禅に入る前に「波動調節」と称して、まず「ムー」と一同で発声することにしています。
これは、「ムー」と発声すると、フラフラしていた意識が「身」に戻ってくる。「身」は今・ココにしか居れないので、意識が「身」に戻ると、いのちがピシッと「今・ココ・この身」におさまる、ということに気づいたのでそのようにしたのです。

その次に、「オー」と発声します。
これは、遠くにいらっしゃる神々や仏・菩薩さまたちに対する呼びかけなのです。 
遠くに、こちらの存在に気づいてほしい人(神)がいたらどう呼びかけますか?
「オーイ」でしょう。「オ」は遠くのものに呼びかけるコトダマなのです。
アイウエオの五音のうちで、一番遠くまで届く音は「オ」です。
口の中の空間が管楽器の管のようなはたらきをして、管(口腔)の中で音が共振し、音が強くなるので遠くまで音が伝わるのだと思います。

禅の会では、まず「ムー」で意識を「今・ココ・この身」に集めて拠点をしっかり定めてから、「オー」で神々をここにお招きして、私たちの坐禅を護っていただくのです。 

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