「魂の学校(仮称)」のイメージが心に浮かんでいます。
学校といっても、対象の年齢も定かではありません。
子供のための教室なのか、青年の活動の場なのか、大人のための講座なのか、ハッキリしていません。
しかし、そんなアワのような夢想のままでソッと置いておいたほうがいいようにも思います。
この夢想を形にするのは、私ではなく、後継の仲間たちでしょうから。
私が輪郭図を描いて、後の仲間はその線のあとをなぞって形にしてゆくだけというのでは、ちっとも面白くないでしょうし、それは間違っていると思います。
ワクワク・ハラハラ・ドキドキしながら、ふるえる手で真っ白な画用紙にスケッチしてゆく。何度も何度も失敗して消しゴムで消しては、また描き直してゆく、さらに描き足したり、色づけしたりしながら、次第に具体的な形が出現してくる。
そんなイチから出発して、ついに「魂の学校」が形になった時、その達成の喜びは限りないものとなるでしょう。
この「魂の学校」は一人では出来ません。多数の同志が、色んな才能を持ち寄って協力しあって実現するはずです。
そんな多数の仲間たちが、さまざまな役割(天命)を引き受けて、お互いの智慧とエネルギーとお金などを提供しあって、そしてついにプロジェクトは完成するのです。
日本語の「しあわせ」の語源は「仕(志)合わせ」だそうです。みんなが力を「合わせ」て、共通の目標(志)に向って、団結してワッショイ、ワッショイ「仕」事をやってゆく。その時の「一体感・連帯感・貢献感」をこそ、日本人は至福の「しあわせ」だと感じたのです。他の国の人たちの個人的な「しあわせ」感とは違いますね。
ですから、そんな「しあわせ」を後世の仲間たちから奪いたくないので、「魂の学校」構想は淡い夢想のまま置いておくべきでしょうね。
「魂の学校」を創りたいという強い「志」を立てます。
はじめは、海のものとも、山のものとも、見当もつきません。
ある時は、『そんなこと出来るはずがない』と弱気になったり、また『これが私の天命なのだ。何年かかってもやり遂げるぞ』と思い返してみたりしながら、少しずつ、その「志」を「心」に根付かせてゆきます。
しっかり「心」に根付いて、その「志」が「心」の中で独自のイノチを持つと、寝ていても、他の仕事をしていても、その「志」のイノチが活動して「渦の中心」となり、現実化に必要なモノたちを次々引き寄せはじめます。
現実化に必要な能力を持つ人に出会い、土地やお金などの必要なモノが偶然のように入手でき…、そのようにしてアレヨアレヨの展開で、気づいてみれば「魂の学校」が出来上がっているのです。
一番難しいのは、志を立てて最初の数年間、人に知られず、実現の兆しもまったく見えず、そんな状態で「志」を捨ててしまわずに、根っこの仕事、下積みの仕事、見返りのない仕事を黙々と続けてゆく過程だということを覚えておいてください。
ここでは、私に浮かび上がってきた「淡い夢想」を軽くスケッチしておきますね。
「魂の学校」のベースには、「すわり」を置いて欲しいと思います。
坐禅とか瞑想という言葉を使いたいところですが、それらの用語には、従来のイメージがしっかりこびり付いてしまっているので使いたくありません。
ここでは「すわり」と表現しておきます。「いのちのすわり」ですね。その「すわり」の形は、従来の坐禅の形と同じです。そんな「すわり」を「魂の学校」のベースとしたらいいのではないでしょうか。
「すわり」の「す」は「巣、主」です。「スッ」と坐るのです。
未来にも過去にも他の人や場所にも寄りかからず、どこにも緊張をとどめず、スッと坐っているのです。
スッと坐れば、そこが我がイノチの本来の住みか(「巣」)であり、そこが宇宙の中心(「主」)であり、そこでの「我」は大宇宙の主(アメノミナカヌシ)なのです。
「す(素)」になれば、自分と和解し、人と和解し、世界と和解することができます。そんな和解が成立したのが「すわり」の「わ(和・輪)」です。
「す(主)わ(和)」になれば、大宇宙の理法、筋道がおのずと見えてきます。それが「すわり」の「り(理)」です。
大宇宙の理法・筋道を実感出来るようになれば、「り(理)」は自ずから「り(履)」となります。つまり、その人に大宇宙が要請しているイノチの方向(天命)へと、自ずと踏み出してゆけるようになるのです。
というわけで、「魂の学校」の土台には「すわり」を置いて欲しいなあと思います。
しかし、「すわり」が頑張り、力みの坐禅になってはいけませんね。
そうならないためには、「魂の学校」は「癒しと安らぎの場」、つまりそこに入学した人がホッと安心できるような場が出来ていないといけませんね。そうしないと、スッと素直に「すわる」ことがなかなかできないのです。
ですから、「魂の学校」の先生方の第一番のつとめは、生徒達に安心と安らぎを与えることができるような、そんな「場」を築くことなのです。
初期の先生方は大変だけれど、いったん「場」にイノチが宿ると、その「場」は、生徒達に自動的に「安らぎと癒し」を提供できるようになってきます。
それから、先生方にとって第二番目に大切なことは、「すわる」ことによって、生徒のイノチの内奥から、『これをやってみたい、挑戦してみたい』という芽生えが生じてきます。
そうしたら、その「伸びようとするイノチ発動の瞬間」を見逃さずにキャッチして、その生徒がさらに成長できるようなチャンスを提供してあげられるように努めることです。
「鵜の目・鷹の目」つまり「生徒が伸び始めようとする瞬間を見逃さない眼」を持つことが先生方には必要です。
生徒がどんな方向にイノチを伸ばしたいのか、その方向を発見して、その方向に導いてあげるためには、いろんな分野の勉強ができるように、さまざまな講座を用意するか、各分野の達人達とコネクションを持っておいて、そこに生徒を送り込むことが出来るように用意しておかねばなりませんね。そういう人脈作りをすることも大切です。
自然科学、社会科学、数学、哲学、宗教、身体表現(音楽・舞踏・演劇・武道など)、美術、身心医療…など、さまざまな分野の方を招いて講師になっていただいたり、生徒を学びに行かせたりするわけです。
目下の私の「魂の学校」の夢想はこんな感じのものです。
ただし、以上のスケッチにはこだわらず、自身のイノチの奥底から湧き上がってくるイデア、あるいは天上界から届くインスピレーションに従って形にしてゆけばいいのです。
私と後継の皆さんと、時代も環境も違います。それなのに、師の教えのまま後の世に伝えてゆくだけだと、その集団の活力とイノチは次第に衰えてゆくだけでしょう。 禅に「仏の頭を踏んでゆけ」というコトバばあります。師の背中や頭を踏み台にして、さらなる高みへとジャンプしていって欲しいと思います。