ご質問への回答

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信180号」の内容を再編集して掲載しています。

次のような質問が禅の会あてのメールで届いたので、そのご質問に回答してみたいと思います。

これまでに三回ほど禅の会に参加したYと申します。

本当は、禅の会で質問するべきなのでしょうが、自分のレベルが低すぎて質問できるような雰囲気ではなく、これまでなかなか聞けなかったのですが、どうしても気になるので、失礼だと思いましたが質問させて頂きます。

大敬先生は般若心経の解説の中で、人類の最終目標は「ひとついのちを悟ること」だとおっしゃっていますが、もともとひとついのちだったのにそれを悟ることが目標というのはなんだか、あまりときめかない気がするのと、なぜわざわざ神様は敢えて壺を割ったのか(ひとついのちを割って個々のいのちを作ったのか)?

多分ひとついのちとして進化するためだと思いますが、神様は進化した結果にどんなビジョンを持っているのか?

中山康直(プレアデス星に転生した)という人が人間は最終的には星になるとか言っていたのですが、とりあえず自分が何を求めているのかが分からない事と、人類は長い間同じようなことをずっと繰り返している気がしていてなかなか「ときめく」ような事が思いつかないので、もし知っておられればお願いします。

あと、大敬先生が一番最初に書かれた『天界の禅者大いに語る』(潮文社)の中で天との通信で「日の理」という詩を書かれていますが、この内容が大本神諭や日月神示などとも似ている気がするのですが、それ以後、ほとんどその話には触れられていません。1000年以上先の話なので敢えて言われないのかもしれませんが何か知っておられればお教え願います。

(質問)本当は、禅の会で質問するべきなのでしょうが、自分のレベルが低すぎて質問できるような雰囲気ではなく、これまでなかなか聞けなかったのですが、どうしても気になるので、失礼だと思いましたが質問させて頂きます。

(回答)禅の会では、どうか遠慮なく質問して下さい。

禅の会ももう十数年続いていますし、はじめの頃から参加してくださっている方も少なくありません。

その間に、皆さんとの対話を通して、私の境地、そして、参加して下さっている皆さんの境地も進歩してきたと思うのです。

ですから、私にとって、そして、皆さんにとっても、禅の会の質問の時間はとても大切な時間で、私は、そして皆さんもどんな質問が出るのかとても楽しみにしているのです。

伝統的な禅の修行をしていた頃、先輩方が次のように言っておられるのを聞きました。「人に禅を教える指導者の立場になってしまうと、禅の境涯の進歩がそこで止まってしまう。だから指導者になるのは遅いほどよいのだ」 

この説は間違いであったと、今では気がつきました。

なるほど、一方的に弟子たちに教えを垂れるという、「垂直一方向の関係」でなら、そうなのかも知れませんが、私たちの禅の会のように、弟子と師が、平等な対話的関係で、お互いに刺激を与えあう「同平面双方向の関係」であれば、弟子も師も、その関わり合いを通して、ともにさらに進化してゆけるものなのだと気がつきました。

長らく参加してくださっている方々は、さすがに心境が進んでおられて、私ともツーカーの仲になっていて、お互いに少しの言葉で、すぐお互いの言いたいことが了解できるようになっているので、新しく参加された人には、話の内容がなかなかくみ取れず、難しく感じられるかもしれませんね。

ですから、Yさんのようなフレッシュマンが、勇気を出して質問して下さると、それが呼び水となって、どんどん、これまで出なかった思いもかけない方向からの質問も出されるようになって、私もさらに考察を深めたり、広げたりすることが出来るので、ぜひ、恥ずかしがらずに、どしどし質問して下さいね。

(質問)大敬先生は般若心経の解説の中で、人類の最終目標は「ひとついのちを悟ること」だとおっしゃっていますが、もともとひとついのちだったのにそれを悟ることが目標というのはなんだか、あまり「ときめかない」気がするのと、なぜわざわざ神様は敢えて壺を割ったのか(ひとついのちを割って個々のいのちを作ったのか)?

多分ひとついのちとして進化するためだと思いますが、神様は進化した結果にどんなビジョンを持っているのか?

(回答)私は、「ひとついのちの悟り」を得たとき、その「一体のいのち」の融合・抱擁の温かい光の海のなかで、嬉しくて、嬉しくてしょうがなかったのです。これこそが、人類の本来の姿で、そのことをみんなに伝えたい、そして、この「調和と融合」が実現した世界をこの地上にも創造したいと、強く念願するようになりました。

そうすると、その「一体のいのち」から、私に「メッセンジャーという役割をよろしくね!」という通信がやってきて、そうして、このような活動をはじめるようになりました。

「ひとついのち」こそ、いのちの本来の姿であるということを伝えること、そして、そんな「平等・調和・融合の世界」建設に向けて活動し、ある役割を果たすこと。それは、わたしにとっては、とても「ときめく」ことなのです。私だけではなく、禅の会やしあわせ通信に参加して下さっている方々もきっとそれぞれの「役割」を嬉々として「ときめいて」、果たして下さっていると思います。

御神輿おみこしを担いで「ひとついのち神社」の神殿に、みんなでワッショイ、ワッショイ、賑やかに、その神輿を運びこむのです。

肩に担い棒を食い込ませて頑張る人もいれば、かけ声で激励する役の人もいます。道の凸凹を直したり、石や障害物を取り除いて下さる人もいれば、大きい団扇で、汗まみれの担ぎ手たちを扇いだり、力水を注ぐ役の人もおり、ご馳走を作って待って下さっている人もいます。神輿に乗り込んで、神輿の方向を指示する係の人もいます。

大敬さんが提出した、人類の魂の進化モデル「金平糖大作戦」は、「ひとついのちから出て、ひとついのちにゴールイン」するというモデルです。

しかし、これは、Uターンするというのではないのです。「金平糖モデル」の面白いところは、Uターンではなく、個のいのちが、前進、前進しながら、いつの間にか、スタートした時より、数段大きい丸い「ひとついのち」に戻っているというところにあるのです。

従来のキリスト教やイスラム教や小乗仏教は「Uターンモデル」で、つまり、個々のいのちに分裂したのは誤りで、それが人類の原罪なのだから、本来の「いのちの故郷(エデンの園)」にUターンせよという復古主義なのです。これでは、「ときめき」ませんね。

「金平糖モデル」は、失敗を恐れるな、自分を信じて前進せよ、というのです。
個のいのちが生じたのは、決して誤り、原罪ではないのです。人類の進化の過程で、どうしても個々のいのちに分裂することが必要になって、個々のいのちが誕生したのです。

個々のいのちの、地上でのあらゆる経験が、「一体のいのち」には、どうしても必要なものなのです。それは、成功体験だけではありません。失敗も汗も涙もすべて「人類の魂」の進化完成のためには、どうしても必要なものなのです。

(質問)中山康直(プレアデス星に転生した)という人が人間は最終的には星になるとか言っていたのですが、とりあえず自分が何を求めているのかが分からない事と、人類は長い間同じようなことをずっと繰り返している気がしていてなかなか「ときめく」ような事が思いつかないので、もし知っておられればお願いします。

(回答)これまでに、人類は何度も「滅亡」を経験しているのでしょうね。しかし、それでもいいのです。失敗しただけ賢くなってゆくのですから。「失敗したらいけないから、すべてを放棄して、エデンの園の昔に戻りなさい」という復古主義では、ちっとも「ときめき」ませんね。
失敗してもいいから、前へ進もう。ワッショイ、ワッショイ、力をあわせて前進しよう。というのが、「金平党」の綱領です。

中山さんという人を、私は知りませんが面白いですね。
個々の人には肉体というボディがありますが、「ひとついのち」にもボディがあって、それは地球次元においては「地球という星」なのです。
そして、地球次元の進化過程を完了すると、すべての人が融合一体化すると同時に、地球とも一体となります。そして、ネクストステージの舞台、次の星へとジャンプするのです。

イエス様は最後の晩餐で、「これは私の血だ」とおっしゃって葡萄酒を弟子たちに与えられ、「これは私の肉だ」とパンを与えられました。

これは喩えではなくて、イエス様は肉体を捨てて、地球という星の身体を纏われて、弟子たちや、すべての生ける者たちを、これからズッと進化過程修了の日まで養い導いてゆくのだよと告げておられるのです。

私たちの肉体も魂の進化とともに拡大霊化していって、ついに地球と一体化する日がきます。すべての存在の体が地球と一体となるのです。

また、各自の意識も次第に接近し、ついにすべての存在の意識と「地球意識」がひとつとなります。
この過程の導きをされるのはお釈迦さまなのです。

このように、意識の一体化、身体の一体化が完成した時、これが「ひとついのち」で、地球次元における進化過程は修了します。

さて、そうなったら、今度は地球という身体を脱皮して、次の進化過程の星へとジャンプするのです。
 
(質問)あと、大敬先生が一番最初に書かれた『天界の禅者大いに語る』(潮文社)の中で天との通信で「日の理」という詩を書かれていますが、この内容が大本神諭や日月神示などとも似ている気がするのですが、それ以後、ほとんどその話には触れられていません。1000年以上先の話なので敢えて言われないのかもしれませんが何か知っておられればお教え願います」

(回答)この「日の理」というのが、私の原点で、その原理が展開して、今日のような活動の形が地上世界に生み出されてきたのです。日の理とは、つまり、「日統理ひとり」,「日統集ひとつ」の理、つまり「ひとついのち」の原理なのです。

しかし、こういうお筆先のようなものを、神聖化したり、有り難がったりするのは、あまり感心できないことで、それでは、私や参加して下さる仲間の人たちの自主性を阻害する要因となると分かったので、私はやって来るインスピレーションを、そのまま記述するのではなく、私の心でしっかり熟成した後に、私の(皆さんの)コトバで文章表現することにしたのです。そして、この判断、作戦は間違いでなかったと思います。

Yさんの質問にすべてお答えできたかどうかは分かりませんが、今回はここまでを回答とさせて頂きます。

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