神様との付き合い方

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信218号」の内容を再編集して掲載させていただいています。

今回は前回のお話の続きです。

川手文治郎さんの伝記を読むと、そのありがたさに自然と頭がさがります。うるさ型の、一家言いっかげんを持っておられる神道研究家の方でも、文治郎さんのことを悪く言う方はいないようですね。それほど文治郎さんは「大地の徳」が高い方だったんです。

文次郎さんがなぜ金神さまを信仰されるようになったのかというと、祟り障りの神だとして恐れられていた金神さまに接しているうちに、日柄方角を占って金神さまの留守をねらって家を建てようとしたり、行動したりする、そういうコソコソ誤魔化したり、だまして行動しようとすることこそが、実は、大地全体を支える神である金神さまに対する大きなご無礼なんだと気づかれたのです。

そして、祟り障りをするぐらいの神なら、こちらが真実込めて打ち向かえば守って下さるに違いないと思われ、恐ろしい金神さまに近づき、ひたすら誠実に信心生活を貫いてゆかれたのです。

信仰の始めの頃は、「神のお試し」のようなことが多かったようです。

夜中に金神様に起こされ、「橋のたもとに財布が落ちているから拾って来い」と命じられて行ってみたが落ちていなかったり、ある人が亡くなったと告げられて喪服を着て弔問にゆくと、その人がピンピンしていたり、ハダシで歩けと命じられたり、十年間も風呂に入るのを禁じられたり…、そういう理不尽に見える神のお試しでも命じられる通りに行じてゆき、ひたすら「おかげです。有難うございます」と感謝して受け取ってゆかれるうちに、信仰の対象の金神様の性格がドンドン変わってゆかれたのです。

家業の農業においても「このようにせよ」という事細かな指導も頂けるようになり、それがその地方の従来の農作のやり方とは違っていても、あえて神の指示の通りに実行していると、まわりの農家よりも収穫が何倍も多くなり、次第に豊かになって、耕作するための農地も新たに次々購入して増やしてゆくことが出来るようになり、篤農家として知られるようになりました。

つまり、文治郎さんは単なる宗教家ではなくて、現実社会でもしっかり業績をあげられて、その上でさらに魂を進化向上させるためには、人を救ってゆくという立場に転じなければもうこれ以上の成長はないというところまで煮詰めていかれて、そしてついに宗教家になられたんだということを知っておいて、自らの生き方のお手本として下さい。

文治郎さんは、日本的霊性発展のために大きな貢献をされたと思います。先の世になったらもっともっと評価が高まっていかれる方だと思います。文治郎さんの功績は主なものが二つあると思います。

一つ目は、『神あっての氏子、氏子あっての神、あいよかけよで立ちゆく』という、文治郎さんを通して語られた金神様の言葉でまとめることが出来ます。

『神あっての氏子』、つまり人とは頼りない、非力な存在で、自分だけでは何も出来ない。だから、神様にお願いし、頼ってゆくしかないんだということですね。これはよく分かりますね。

次の『氏子あっての神』はどうでしょう。どうして、神は人の力を借りなければならないのでしょうか。

そもそも「人」と「神」はどう同じで、どう違うのでしょうか。

「神」も「人」も、そもそも「ひとついのち」という丸い魂から枝分かれして地上にやってきた分霊です。そういう意味では「人」と「神」は兄弟姉妹(一体のいのち)の関係です。

しかし、「人」は、まだ進化の段階が低くて、「自分(エゴ)」という殻に厚くつつまれ、そのせいでいのちの可能性が狭く制限された存在ですが、「神」は、もう「自我」の殻がなくなって、「ひとついのち」が自分たち(「人」と「神」)の本来の姿であるということに気づいている存在です。制限の自我の殻がないだけ行動の可能性が大きくなっています。

そして、「神」は、進化の最終ゴールを自覚しています。枝分かれして別々になっていた「人」と「人」、また「神」と「人」のいのち全体が融合一体化して、ついに「ひとついのち」の故郷に復帰することが進化の最終ゴールなのだと自覚出来ているのです。

その進化のゴールを目指すために、「人」は「神」の援助を得て、自我の殻を取り去ってゆかねばなりませんし、「神」はすでに「いのちの一体」を悟っているので、「神」にとっては、「人」も実は「自分の内側」の存在なのです。

ですから、「人」が進化の段階がまだまだだというのは、「神」にとっては、自分の進化の段階がまだまだなんだということなのです。

ですから、「神」は「人」を助けずにはおれないのです。「人」の進化をサポートすることが、自らの進化向上になるのだからです。

だから、「神」は「人」を救いたくてウズウズしておられるのです。

ですから、遠慮せずに、何でもかんでも神様にお願いし、力になっていただきましょう。

「人」と「神」は、実は同じ道をゴール目指して歩む仲間、「同行どうぎょう二人ににん」なのです。

それが、『あいよかけよで立ちゆく』です。『あいよかけよ』というのは、建築・土木の共同作業の際の掛け言葉だそうです。『わっしょい、わっしょい』のようなものですね。

そうして「神」と「人」の助け合い、共同作業によって、人類の地球次元における進化達成という殿堂が『立ちゆく』、つまり『建ちゆく』というわけですね。

二つ目は、「神」とのお付き合いの仕方の革命です。

それまで「神」は畏れ多い存在、その威力は絶大で気に入ってもらえれば、これほど頼りになる存在はないけれど、いったんご機嫌を損ねたら厳罰を蒙ることになると、「人」は「神」とビクビク、恐る恐る接していたのです。

それに対し、文治郎さんは「氏子が神と仲善うする信心ぞ。神を怖れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ」と説いておられます。

神と人は同じゴールに向う仲間、同志なのですから遠慮はいらないのです。頼ってゆくほど、願ってゆくほど喜んでくださり、面倒みたくて、世話をしたくてしょうがないという神様なのです。

では、具体的にはどういう風に神さまと接してゆけばいいのでしょう。

農業をしておられる信者さんには次のように指導しておられます。

「この作をと思いついたら、それを3月に蒔く時、もみを供えて立派にできるように願い、5月に植える時には、よく生い立ちますようにといって願って植え、秋、穂が出たら、立派に実るように願えば、作徳(豊かな収穫)がいただけるからなあ」

このように、何かにつけて、しっかり目標を意識化し、言語化して神様にお願いし、頼ってゆけばいいのです。

ある人が「信心はどうしたらできましょうか」と質問したそうです。

それに対して文治郎さんは「信心といっても別に難しいことはない。親にものを言うように、朝、起きたらお礼を申し、その日のことが都合よくいくように願い、よそへ行く時には、行って参りますと言ってお届け申し上げよ。そして、帰って来れば、無事で帰りましたとお礼を言い、夜、寝る時はまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それで信心となる」と説かれました。

ある人が「神様の拝み方が分かりません」と質問しました。

それに対して、「神様を拝むのに、この道では別に決まりはない。形より心だ。実意丁寧正直、まこと一心がかなめだ。

日々この天地に生かしてもらっているお礼を申して、その次に、お互いは凡夫の身であるから、知らず知らずのうちに、この天地にご無礼をしているのが道理だから、それをお断りしおわび申して、それがすんだら、身の上のことを何かと実意をもってお願いさせてもらうがいい」と教えて下さったそうです。

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