応援団

しあわせ通信(毎月15日更新)

ある時、禅の会にやって来た方が「私は気が小さくて、ちょっとしたことにもすぐ不安になってしまうのですが、こんな性格は悟れば変えられるものでしょうか」と質問されました。

私は、「いいえ、悟っても性格は変わりません。そのままです」と答えました。

そうすると、さもガッカリしたような顔をされて、もう禅の会に来られなくなりました。もう少しじっくり私の解答の意味を考えてもらえば納得されたのでしょうが、縁のあるなしは神様が決められることなので仕方がありません。

その方のその後を知人の方に聞いて見ると、あの先生、この先生と転々とされて、どこにも落ち着けず、それにお仕事の面でもうまくいっておられないそうです。いわゆる「スピリチュアル難民」の状態に陥っておられるようですね。

こんな方でも、神様のご配慮でまたご縁が戻るという場合もままあることなので、私たちの禅の会はすべての人に門戸が開かれています。

「悟り」とは、自分が自分に落ち着けるようになったところをいいます。何か特殊な劇的な体験をすることが悟りではありません。

「自分が自分に落ち着ける」というのは、「自分が『ありのままの自分』に落ち着ける」ということです。自分が何か別物に変身するということではありません。

私だって、気が小さくて、ちょっとしたことにでもすぐ傷ついてしまうぐらい繊細で、それに人嫌いで閉じこもり体質なのですが、こんな「基本体質」は、今もそのままでちっとも変化していません。

でも、これは先ほどの質問の方に答えられなかった話の後半部分なのですが、私は、そんな自分が嫌いではなくなりました。昔はそんな自分が嫌で嫌でしょうがなかったのですが、今では、そんな自分であることを認め、受け入れ、許し、ヨシヨシと「そのまま抱きしめ愛せる」ようになりました。

ありのままの自分を許し、愛せるようになると、ギクシャク・オロオロの連続であった人生の歩みが少し変わってきました。自分のイノチの奥底にある泉から水がコンコンと湧き出しあふれて自分の前に道を作ってくれるようになりました。

その道をゆけば、私は「湧喜(ゆうき)」を持って堂々と歩むことができます。  

みちみちて あふるるものが 道となり これを歩めと伸びてゆくなり

私が今のように「お道の仕事」に専念でき、老年を生きがいとやりがいを感じつつ生きてゆけるのも、その「もと種(だね)」は、若い頃は嫌で嫌でしょうがなかった私の「性格」であると思います。

その「性格」が原動力となり、私を求道させてくれたのです。決して邪魔者ではなかったのですね。「ありがとう、僕の性格さん」といつも感謝しています。

自分の一番の応援団は自分なのを忘れないようにして下さい。くじけそうになったら下の詩を何度も音読してください。○○、○○にご自分の名前を入れてください。

応援団

一番大事な君だから
一番いとしい君だから
僕は君を見捨てない
どこどこまでも離れない
フレーフレー ○○、○○
ドンマイドンマイ○○、○○
僕は君の応援団
ゴールの日までサポーター

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